【11月のヤバい女の子/年齢とヤバい女の子】
●辰子姫
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《辰子姫伝説》
秋田県の山あいの村に一人の女の子が暮していた。
素朴でやさしい、辰子という名前の子だ。幼かった辰子は数年のうちに、はっとするような美しい少女に育った。
周囲から「年頃」と言われ、周りの同年代の少女たちと同じく大人のように扱われ始めても、しばらくの間、辰子は自分の顔かたちに無頓着だった。子供のように野山を駆けまわって遊んでいた。
しかしある時、ふと鏡を見て気づく。
(もしかして…私って、かなりカワイイのでは?)
それ以来、辰子は自身の美しさについて考え込むようになった。自分の持っている美に価値を感じるほど、今の自分を尊いと思うほど、この美を永遠に留められないことが苦しい。
(私って今、かなりイケてると思う。
せっかくこんなにカワイイのに、加齢とともに変わってしまうなんて我慢できない。なぜ今「良い」のに、失われなければならないんだろう。
若さ。永遠の若さが欲しい。)
辰子は願いを叶えるべく、大蔵観音への百日詣りを決行した。百日間、毎晩通い続け、最後の夜に観音様からお告げがあった。
【山の奥に泉が湧いている。泉の水がお前の望みを現実にするだろう。】
辰子は急いで指定された山へ向かった。家族に黙って家を抜け出し、暗い山を何時間も一人で進む。
こうしている間にも一分、一秒が経過している。一秒は蓄積して一日になる。百日詣りなんてあっという間だった。四回も詣ればもう、一年だ。一年経てば年齢が一つ増える。私は一刻も早く時間を止めなければならないのだ。
深い山奥に、果たしてその泉はあった。透き通る水面に覗き込んだ顔が映る。うん、やっぱりカワイイ。
手を掬い入れると水鏡の波紋の中でカワイイ顔はぐにゃぐにゃとうごめいた。これを飲めば今を永遠にできるのだ。どきどきしながら口をつける。
それはこれまで飲んだどの水よりも清涼だった。果てしなく透明で、すうっと冷たく、細胞にまで染み込んでいくみたい。
確かめるように再び手杓を作る。美味しい、素晴らしい水だ。山道を歩き回って喉が渇いていたことに、今気づいた。さらにもう一杯、二杯。もっと、もっと飲みたい。だってこんなに渇いている。手で掬って口元へ持っていく間も惜しい。
辰子は突然その場に蹲り、泉に顔を突っ伏して直接水を啜り始めた。それでもまだ足りない。足りない、足りない。
足りない!!!
泉の水位はどんどん下がり、それに反比例するように辰子の体は膨らんでいた。正確には、膨らむと言うよりは長く伸び、滑らかな肌には鱗が隆起し、艶やかな髪はざわざわと逆立ちーーー
ーーーそこにいたのは人間の女の子ではなく、一匹の龍だった。
我に返った辰子は自分がどうなってしまったのかをはっきりと悟った。
ああ、ああ。確かに永遠に生きられる。これで私はいつまでも留まることができる。彼女はそのまま泉に沈み、田沢湖の主として生き続ける運命となった。
家では、辰子の母親が帰らない娘を心配していた。方々を探し回ったが、辿り着いた頃には娘は龍へと姿を変えていた。
変わり果てた辰子に母は泣く。どんな外見であろうと親愛には変わりはないが、今までのように一緒にいることはできない。もう懐かしい顔も見ることができない。
母は深く悲しみ、手向けとして湖に松明を投げ入れた。火はジュウ、と音を立てて消えたが、薪は水の中を揺らめいて泳ぎ始めた。薪は魚の姿に変わり、国鱒と呼ばれた。
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いつまでも若くありたい。その気持ちはよく分かる。
スポーツ選手でなくとも健康でよく動く肉体をできるだけ長く保ちたいと思うし、脳の機能が経年とともに低下するのならできるだけ先延ばしにしたい。
もちろん若いからといって人類全員がいつも元気で、50mは6秒で完走、暗記も得意で徹夜も余裕、などということはあり得ないが、それぞれの人生において肉体と脳のパフォーマンスはいつかピークを迎え、その後低下する。「人の一生」において若さは確かに素晴らしい。若者は人類の希望だ。
と、ここまでは確かに分かるのだが、テーマを《「女の一生」における若さ》に限定すると、途端に分からなくなる。
何が分からないかというと、正直、自分でも何が分からないのか分からない。
ただ、何となく周囲の空気が自分の考えていることとずれているような感覚が、「転職三日目で前任者が辞めてしまって重要な引き継ぎを忘れられている気がする時」のような不穏さで横たわっている。自分の知らないところで決まったらしいルールが存在し、そのルールを前提として話が進んでいくんだけど、自分だけがピンと来ていないような感じなのだ。
「女房と畳は新しい方が良い」という諺を直接耳にする機会はさすがに少ないが、テレビで、雑誌で、インターネットで、仕事場での他愛もない会話で、親族の集まりで、「若い女の子」はすごく良いものとして取り扱われる。それを見て(えっ そうなの!??何で??)となる。対して、「あまり若くない女」は良くないものとして描かれる。両者は同じくらいの熱量をもって持ち上げられたりこき下ろされたりする。それを見て(えっ そうなの!??何で??)となる。そして「ここまでは若い」「ここからは若くない」というガイドラインは暗黙のうちに定められている。そのガイドラインの中では、「人としては若者だが、女としてはもう若者ではない」というような不可解な現象が起きる。「若い女は老いた女よりもイケている」とみんなが信じているという前提で、女性に対する悪口は大抵、ブスかババアで賄われる。それを見て(えっ そうなの!??何で??)となる。
こんな風に何ひとつ分からないまま、私は大人として過ごしている。
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辰子はなぜ老いることを拒んだのだろう。
美しさを追い求める辰子は、その実、他人の目を全く気にしていない。この物語には彼女の美しさを評価する人物がいないのだ。登場するのは辰子本人と、彼女を大切に思う母親だけである。私は、辰子が第三者による評価のために美を保とうとしたのではないのかもしれないと思う。
とても幸福なとき、あるいは、とても幸福だったなと振り返るとき、「今が永遠になればいいのに」「あの時が永遠だったらよかったのに」と渇望することがありますね。でも基本的に私たちは永遠ではない。
生きて、老化して、ババアとかジジイとか言ってる場合じゃないくらい何もかも変わっていって、朽ちて、無機物になっちゃって、ーーーその先は?私たちのことを覚えている人も死んで、子孫がいれば子孫も死んで、縁がある人たちも記録の上でしか私を知らなくなったら?今こんなに幸せなのに、あの時あんなに幸せだったのに、なかったことになるのかな。あるいは、もっと近い未来、愛していた世界が変わってしまって、好きじゃなくなってしまう日が来るのかな。
あの日、もしも辰子が時間を止めたいと思うほど幸福だったのなら、彼女の母親がそれを知る術があればいいんだけど、と思う。今も彼女は若き龍の肉体で生き続け、日本一深い湖の底で反芻しているのかもしれない。
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全てを捨てて時間の概念と決別し、辰子の世界は完結したように思えるが、この物語には後日譚がある。
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ある日、一匹の龍が辰子の住処を訪れる。田沢湖の北西にある八郎潟の主、八郎太郎だ。
彼もまた、人間から龍へと変身した身であった。人間だった頃は猟をして生計を立てていたが、ある日空腹のあまり仲間の魚を食べてしまい、その罪によって龍の姿になってしまった。その後は青森県と秋田県の県境にある十和田湖に住んでいたのだが、南祖坊という人物と土地を巡って争い、敗れて南下してきたとのことだった。
似た境遇の二人は惹かれ合い、恋人となる。田沢湖はとても深く水が凍らないため、八郎太郎は東北の長い冬を辰子とともに田沢湖で過ごすという。
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八郎太郎という新キャラクターが登場したことにより、ストーリーは「八郎太郎の登場前」と「八郎太郎の登場後」の二つに分けられた。「以前」と「以後」があるということは、時間はストップしていない。変化が起こり、歴史が存在している。
時間はいつも辰子を変化させる。「以前」の辰子は八郎太郎のことを知らなかった。龍になった人間が自分以外にもいるなんて、想像もしなかった。
そういえば、田沢湖にはもう一つ「以前」と「以後」がある。
辰子の母親が投げ入れた薪から生まれた…と言われる国鱒は、近くを流れる玉川の水を田沢湖へ引いたことが原因で1940年頃に絶滅したと考えられていた。しかし2010年になって、山梨県に孵化実験のために送られた卵が繁殖していたことが発覚し、絶滅が取り消された。(当時、さかなクン氏が発見のきっかけになったというニュースを見た記憶がある。)
70年間、この魚は再発見されるのを待っていた。時間が流れなければ絶滅もしなかったし、発見もされなかったのだ。
変わりたくないのに変わらなければならないことは、つらい。自分は何も変わっていないのに、「変わったね」と言われることも。自分は変わらないのに周りだけがどんどん変わっていってしまうことも。
一度変化してしまえば絶対に遡って元に戻ることはできない。こうしている間にも一分、一秒が経過している。
自分の美しさに気づく前と気づいた後。今のままでいたいと思う前と思った後。泉の水を飲む前と飲んだ後。母が泣きながら松明を投げ入れた時。自分と同じ過去を持つ男の子と初めて話した時。ひとつの種が死に絶え、また存在する時。
一秒は蓄積して一日になり、記憶や、知識や、経験や、感動や、関係性として過ぎ去っていく。
今年もまた誕生日が近づいてくる。
私、去年の今頃持っていたもの、全部なくしてしまった。だけど新しく手に入れたものもある。
手に入れてもまた失くすかも。手に入れたものだって、やっぱりそんなもの手に入れなければよかったと思うかも。
だけどバースデーがおめでたくないなんてありえない。だって、「いなかった」状態から「いる」という状態になった日なのだ。きっとそのうち「いる」状態から「いない」状態になる日も来るけれど、それでもやっぱり、いたものはいたのだ。いなくなったからって、最初からいなかったことには誰もできない。
ケーキの蝋燭を数えるのが面倒だから、いっそのこと生クリームが見えないくらい挿してしまおう。キャンプファイヤーのように燃え上がる炎を吹き消して、お願いごとを一つ心の中でつぶやいてみて。/終