自分の年代の子が遊んでいる場所よりも年上の人たちが遊んでいる場所が好きだ。なぜだろう。自分が普段いる場所から逃避したい気持ちと、大人になる楽しみを見つけることに単純に魅了されるからかもしれない。
今では大人になったのでそういう場所はどんどん少なくなっているけど、高校生だった私にとってのそれは、新潟・東堀通にあるライブレストランだった。当時のオーナーが長い髪をポニーテールにした背の高い美しい女性だったことと、店に置かれたニューヨーク・スタインウェイをよく覚えてる。茶色の木目調が個性的で存在自体が美しいピアノ。
定期的に全国からジャズを中心としたミュージシャンがやってきては演奏する上品なお店で、お客さんは大人ばかり。似つかわしい私服もないから、と制服を着て行く私にはどうしても距離のある世界だった。バイト代くらいのお金しか、なかったし。
気になるライブを見つけて訪ねるたび、お店のドアはとても重く感じられた。場違いじゃないかと入ってからもそわそわ落ち着かなかった。大人たちがお酒を飲んだり食事をしながら、生の音楽に耳を傾ける空間。勇気を振り絞らないと入れない場所に手招きしてくれたのは、その場の中心にいた、女性オーナーだった。
あるライブの帰り際、オーナーに話しかけるチャンスが訪れたときのこと。
ここが好きで、ジャズが好きだってことを伝えたいと思っていた。緊張しながら話すとオーナーはすごく喜んでくれて、場違いで萎縮してしまっていた高校生の私を歓迎してくれた。さらにオーナーの心意気で、以降のライブは半額になった。同伴者のいない制服の私は、おかげでフワンボワーズのケーキとソフトドリンク1杯をオーダーするお金を捻出することができたのだった。
(大人になった今でも気まずく感じる)1stステージと2ndステージの狭間、手持無沙汰にならないよう文庫本を忘れずに携えてライブに出掛けた。できるだけ、慣れているんですよ、という顔をするように注意して。それでもやっぱり、浮いていただろう。
そのお店で私が一生懸命に吸い込んでいたのはあらゆるミュージシャンの放つエネルギーや美しい表情だった。それをうっとりと聴く大人たちの横顔だった。音楽の良し悪しは今もその頃もそこまで分かって聴いていないけど、その場所その時間の完璧なかんじが特別に感じられた。レストランスタッフの働き姿も素敵で、殊にオーナーの凛とした美しさには特別に憧れた。とても、きれいだった。
そこに何度か通ううちに、美とか音楽とか渦巻く興奮とかを一夜築き上げること自体に強く心惹かれるようになった。日常を少しだけ非日常に変身させる、こどもを大人に変身させる場所はどうしてこんなに楽しいんだろう。出てしまった瞬間に夢から醒めた気持ちになる遊園地よりもずっといい、身体が熱くなるような面白さだった。
音楽を聴きに行くと、好きな人と会えることと同じくらいドキドキした。
もちろん家に帰れば叱られた。
ライブはたっぷり聴くと家に帰るのが23時近かったけど、途中退席なんてありえない。「大人になってから行きなさい」と言われても、そんなの意味がないと知っていた。その場に相応しい大人になれたとして、高校生の私が重いドアを開いて踏み入れた場所と同じ景色はそこにない。
子どもには子どもにしか入れない聖域があるように、大人には大人しか楽しめない場所がある。子どもの聖域は排他的だけど、大人の場所はどこかオープンなところがあると思う。自分で扉を開くことさえできれば、跳ね返されることも過干渉を受ける心配のない、各々楽しみましょう、という空間。高校生は子どもと大人のどちらでもないので、どこも馴染めなかった。それなら、背伸びするほうを選びたいと思った。
大人になった今も、平行線上にない景色を見たいと思ってしまうのは変わらない。大事なのは「いまここ」でない場所に自分の足で踏み入れる行為そのもの。そしてそれを好意的に受け容れてくれる、私の世界の外側に住む大人の存在だった。遠い素敵な人を目で追うことで感じる寂しさは、寂しいけれど清々しい。憧れるような大人のひとたちは、そこに辿り着くまでに自分なりの時間の掛け方があることを教えてくれる。
そういう場所が私にも開かれていると教えてくれたオーナーのおかげで、上京してからはいろんな場所でいろんな音楽のライブに足を運んでいる。どんな音楽も場所もほとんどは広く開かれていると今では知っているけど、知る前はどんなに不安だったろう。
実際は、子どもの頃のほうが拒絶と否定が身近だった。いい感じの大人たちが集まる場所は寛容。多くの人が楽しく過ごすことを尊んでいるので、他人に優しいと思う。
私が通った新潟のお店のオーナーは変わってしまったけど、私が憧れたその女性は独立して今も新潟の音楽シーンを盛り上げている。
成人してしばらくしてから再会したときは出会い直せたようで嬉しかった。大人同士になって会えたら、またこの先、大人になることを素敵に思えるはず、とずっと思っていたから。