人生を通り過ぎて行くもののなかで、絵本や小説に出てきた登場人物もまた、私のなかに強い印象を残している。ときには実在する人以上の存在感を感じることさえある。物語のちからは強大だ。
「おっきょちゃんとかっぱ」という、小さな女の子が川底のカッパの世界に行ってしまうお話を、夏になると必ず思い出す。おっきょちゃんはひとりで川遊びをしているときにカッパのこどもに出会い、誘われるまま川底でのカッパのお祭りに行ってしまう、勇気と好奇心のある女の子。そのうえ気が利くおっきょちゃんは、お土産にキュウリを持参するのでカッパたちは大喜び。手厚い歓迎を受けて幻想的な美しさのある川底でのカッパとの暮らしに馴染んでいく。
だけれどいく日か経ったある日、川底から人形が流れていくのを見て人間の暮らしを思い出し、帰りたくなってしまう……。
カッパはすこし恐ろしい外見に反して優しく、おっきょちゃんは「連れ去られた」わけではなく自分からお土産まで持って着いて行く。受け身なだけでは物語が発展しないもの。おっきょちゃんの好奇心と意志の強さは清々しい。
たぶん、彼女はひとり遊びが多かったから、カッパたちとの暮らしは賑やかで楽しかったのだろう。描かれた川底での遊び「吹くと七色の泡が立つ水笛」は幻想的で、それはそれは美しく、絵本を開くたびうっとりした。
それでもおっきょちゃんは帰りたくなってしまう。人間界に帰る方法がとても素敵なのだけど、とにかくおっきょちゃんは自分のお家に無事帰ってくる。川へ行ってからいく日も経っているはずなのに、全く月日が流れていない。お話はその辺りですっと終わる。
初めてこのお話を知った時から20年ほども経ち、いまだ私がこのお話を覚えていても、おっきょちゃん自身は忘れちゃったかもしれない、と彼女とカッパが過ごしたであろう夏に思う。カッパのシルエットを夢で出会ったものとしてぼんやり覚えていたとしても、水笛遊びのことやカッパに仲間入りして川底から世界を眺めて過ごしたことは忘れちゃったのかもしれない。でも「ここではないどこか」があることを、おっきょちゃんは身体で知っているんじゃないだろうか。
ここではないどこか、を知っているとひとは強く生きられる。思いを馳せることのできる先をいくつか持っていることは、その空想側からの視点で現実を理解するのにも有効だと思う。その地が実在しているかどうかは重要ではなくて、すべてはその場所とそこにいる生き物をどれだけじぶんの中に思い描けるかどうか、なのだろう。
絵本や小説が見せてくれる私たちの現実と隣接した別の世界は、今、自分が直面している現実がすべてではない(けれど今、私たちは『ここ』にいるという)ことを思い出させてくれる。
ここではないどこかへとのつかの間の行き来はこどもだけの特権ではないはずで、大人のわたしたちにも開かれている。ただおっきょちゃんみたいに好奇心と勇気(と、正しいお土産を持参する知恵!)を持っていないと「あちら」での生活も簡単ではないんだろう。ここではないどこか、が今よりも楽ができる場所とは限らない。
それでも行くことができるなら、行ってみてほしい。そして無事に帰ってきてほしい。例え自分自身がその体験を忘れてしまったように思えても、実際に旅をした身体はそのことを覚えているはず。そのことを身体は簡単には忘れない。今ここで何か淋しい思いをしているとき、身体の記憶が心を寄せる先ならいくつかあることを思い出させてくれる。
そういう他人に奪えない場所をもつことは、自分にだけよく効く、おまじないになるのかもしれない。