この世界には限りがあります。自分自身の存在と命、そして他の万物の存在と命にも。
しかし、まっさらな心身で生活をしていると、世界は無限に近い有限であることが絶えず実感できます。そして、決して短くはないですが限りのある人生に対するその果てしなさを考えると、そこには無限とほぼ同じ豊かさがあると言っても差し支えないでしょう。
ただし、瞬間や日々や歳月とともに経験を重ねて様々な学習をしていく人間にとって、いつまでも完全にまっさらな心身でいることは不可能です。けれど、世界を成り立たせている事物や現象に体と心を開き、より多くを感じ、深くを知ろうとし続けることがそれへの接近を可能にするとも思われます。
初回の連載にも、そのように決して終着させない姿勢を持つことが大切だと記しましたが、その具体的かつ有効な手段の一つに、もう一つの世界と共に生きることがあります。
もう一つの世界とは何でしょうか。
想像や夢幻の世界と言うと分かりやすいでしょうが、それだけではとても言い尽くせません。そこは体験可能で確かな世界であり、現実の軽薄な単純化でも飾り立てた嘘や歪曲でもない、現実と同様の、時にそれ以上の豊かさを実感できる世界なのです。
もう一つの世界は現実と同じ要素、イデアとでも形容すべき原型から成り立っています。現実が異なる力や空間や時間によって構築されるときに現れていた、あるいは現れるに違いないものごとの全体、それがもう一つの世界です。二つの世界を分けるものはただそれだけなので、意志を持つことさえすれば自分達はその間を自由に行き来できます。
よって、現実ともう一つの世界には強い絆があります。一方に何らかの変化があればもう一方の世界も変わるし、逆もまた然りというように、それらは互いに多大な影響を及ぼし合う。乏しい空想が現実を薄っぺらに変えるならば、豊かなもう一つの世界は現実を重厚にします。だから、夥しい事象に満ち溢れ、それらが作用し合って永遠に続いていくもう一つの世界は、その場限りの楽しみのみを与えるものではなく、人生の豊かさを根本から広げるものなのです。そして、それら二つの世界における体験はほとんど等価と成りえ、それらが渾然一体となって生活を富ませるのです。
さて、生きとし生ける全員が各々に多かれ少なかれ異なった現実を知覚して持っていることは疑うべくもありません。加えて、その各人はもう一つの世界をも持ちえます。五感をつかった観察と行動に、頭と心をつかった考察と想像。それらを続けることが両方の世界の存在をより高めます。
同じところにいて行動を共にし、会話をする。誰かと関係することは互いの現実世界の接触を生みます。それぞれの現実が豊かであればあるほど、その交際と交感は充実したものになります。さらに、そこへそれぞれのもう一つの世界が加わったらどうなるでしょうか。
文学、哲学、絵画、造形、音楽、舞踏、演劇、宗教…それらの多くはある人やある人々の現実ともう一つの世界を体現したものです。それを知ると、世界は幾つも、それこそ星の数ほどもあることが分かります。元々存在する一つの世界が無限に近く豊かであるゆえにそれらは派生し、各々が各々をどこまでも広げ深めていく。その眩暈(めまい)を起こさせるような果てしのない連環は、ただただすばらしいとしか言いようがありません。
さて、自分はこれからも生活と表現を続けながら、現実ともう一つの世界の両方をより豊かで確かにしていきます。また、それらの実行を公開することで、誰かの現実やもう一つの世界を少しでも潤し、力づける助けにもなりたいのです。
あなたの現実ともう一つの世界はどんなものですか?自分はそれを知り、体験することもまた望んでいます。そして、それらの世界を共有し、より良く活かし合うことを願うばかりなのです。