環境が己を作る。とは誰の言葉だったろうか?
僕らは日々変化している、記憶から細胞に至るまで同じものは一日たりとてない。
だとすれば人一人の人生を一本の筋道だった線として形成させているパーソンは本人の中になどは存在していないのだろう。
少なくとも僕には、人は己の中に己を見いだせない生き物であるように思える。
以前、僕はとある町はずれの木造二階建て、五畳半のアパートで一人暮らしをしていた。
隙間風に凍え、部屋を這い回る虫たちとの戦いに明け暮れ、何より一人だった。
アルバイトが終わると自宅に戻り黙々とエレキギターをアンプに刺さずに練習した。
お金が無くて、時間が無くて、毎晩の散歩ぐらいでしか一息つく暇も無かった。
唯一の楽しみは週二回のバンドの練習と月一回のライブぐらいだったが、不思議なもので、劣悪な環境下での暮らしも、寂しさも、少しも苦には感じなかった。
自分に夢中だった・・・とでも表現すれば伝わるだろうか?
結局、契約満了になり引っ越すまでの二年間僕はいたって前向きにこの淡白な暮らしを耐え忍んだ。
そして五年前からバンドのメンバーと現在も暮らしている3LDKマンションでの共同生活を始めた。
飛躍的に生活環境は改善された。
隙間風は吹かず、虫の数も減り、生活費が折半なので支出も大幅に減った。
メンバー各々持ち寄った楽器でリビングは半スタジオ状態で作曲をするのも一人ではなくなったし、徐々に仲間やファンもできてきたりしたので暮らしもにぎやかになった。
それにしても五年間か・・・本当に色々な事があった。
地続きで現在まで続いている暮らしのせいか、過去として語るには整理がつかず、だからと言って現在として語るにはすでに記憶は曖昧で要領をえない。
しかし現在の状況を考えると、もうあの五畳半の暮らしをしていた頃と今の自分では、なにか遠くかけ離れた別の人間になってしまったようにも思える。
それほどに一人でないというのは、善きも悪しきも抱えきれないほど沢山のものを与えてくれる。
右往左往する僕がどうなったかは以前書いた通りだ。
すでに物語は一度途絶え、ベッドの中にはほんの少しばかりの温もりが残るのみだ。
今またそこに戻る訳にはいかないし、戻れる訳もない。
目の前が霧の中であろうとも、二日酔いの幻覚の中であろうとも。
さて、またもやこの日記をタイピングしている間にすでに外は夜を飛び越え、暖かな日差しを部屋に差し込んでいる。
遠くの方ではまた学校に登校する子供達の笑う声も聞こえる。
すこぶる眠い、そろそろ書き終えなくては・・・。
学生時代の教科書で、たしかフロイトさんあたりだったと思うのだが、「幼い自我が崩壊して、それを修復した時はじめてアイデンティティが確立される」というような事を言っていたのを覚えている。
当時は何を当たり前の事を偉そうに述べているのだと思ったものだが、今まさに一度壊れてしまった現状を修復しようとしている僕にとってはなんとありがたい言葉なのだろうか。
それでは眠ります。