ルーニィ今年最後のギャラリー企画として愛知県在住の写真家、上野龍展を開催しました。元・即興演奏家の上野さんにちなみ、写真家自身のプロデュースによって、ホンモノの音楽家による演奏会を開催しました。4度開催されたうちの初回は、アルトサックス奏者の坂田明さんでした。
「向かうところ客なし」などとジョークを交えつつも、大きなプロジェクト以外にも、ぼくたちのようなとても小規模な空間でも頻繁に演奏をされています。「どんなところでやっても手を抜いてはいけない、どんな人が見に来ているから分からないから。」と最初から針が振り切れる様なテンションの高い演奏でした。実際後半から外国人の若者が3人紛れ込んで来て、何かと思ったらニューヨークから来たそうで、インターネットで坂田さんの情報を調べてたら、四谷で演奏が観れるというので来た。とのこと。海の向こうからやって来て思いがけず眼前で気持ちのこもったプレイを観た彼らは、とても喜んでいました。いつでもどこでも同じように気持ちを込めて演奏している姿をみていて、プロミュージシャンの覚悟のようなものを感じました。同時にとても尊敬の念を抱きました。ぼくもこういうような気持ちを持って年を重ねて行きたいと強く思いました。
プロとアマの違いについて昔からずっと考えています。
ぼくが考えるプロとは、単に写真制作や発表において金銭的な対価を受け取る人という意味ではありません。プロ写真家とは、報酬の大小有無に関係なく写真を使って社会と向き合っている人、そして制作や発表という行為を通じて生じる影響のすべてをきちんと受け止めることができる、もしくはそのつもりがある人のことだと思います。
表現をする生き方を重ねて行くにはそれなりの覚悟というものが必要です。表現とはコミュニケーションの一種であって、自分が思う様な反応ばかりが返ってくるわけではありません。時には否定的なものもありますし、自分がやったことが本人の想定を越えて、全く知らない他人をどんどん巻き込んで行くこともあります。そのすべてを受け止める覚悟とは、時には身がよじれる程の苦痛を伴うものだと思います。
生業はどんなことでも良いと思います。ぼく自身、自分のギャラリーでやっている作家さんたちが普段どのように生計をたてているのか、ほとんど知りません。だから、自分はアマチュアだと思っている人にも内容が面白ければ発表の機会を提供したいと思うのです。そのかわり、表現行為に関わりたいと思うのならば、いざ事が起こった時に「自分はアマチュアだから」といって安全地帯に逃げ込むようなことはしないことです。相手が納得するかどうかはともかく、きちんと自分の言葉で受け答えする備えは持つべきです。
技術的な鍛錬や、豊富な経験なしでもある程度形の整った図像が得られるようになった今、カメラ操作に慣れた程度の人でも普通に発表の機会を持とうと思う人が増えていますし、写真集のようなものを作ってみたいと考える人も増えています。しかしながら、それらの発想の多くが自分の作品を「出す」ということばかりに重点が置かれており、それによって生じる様々なことまで想いを巡らせ、織り込んでいるとは思えない様なケースも増えています。
メディアの形態が多様化したことは、保守的で特権的な既存の狭い業界に属さない人も世の中にモノを言う機会が増えることでもあります。そういう意味で表現行為に打ち込んでいる人には、発表までのハードルが低くなるのは歓迎すべきこともあると思いますが、ハードルが限りなく無に近くなる流れは良くありません。
ギャラリーディレクターがいなくても、写真展会場に写真は並びますし、編集者がいなくても写真集は刷り上がります。「出す」ということに考えの重心を置きすぎると、それをゴールと思ってしまう。本当は何も始まっていないのに、です。本を出しても本の頁をめくってもらう、手に取って購入してもらうのにも、新たなハードルがあります。写真展だったら、かつてぼくが経験したように、やったはいいが誰も来ないということです。
これから世の中に出て行こうとする若い人たちに言いたいのは、キャリアの初期ほど、自力で出来る道を選択するのではなく、往く手を阻もうとする大人のハードルがあった方が良いということです。作品を扱う立場の人間と自分の作品を間にして言葉の摩擦を繰り返して行くからこそ、表現者は磨かれ、社会と向き合う覚悟が生まれて行くのです。
ライブの後の打ち上げの席で、音楽と写真ジャンルは違いますが、坂田明さんも自分と似た様な想いを持っていた事が分かりました。それにしても、事前にルーニィのことを調べ、ぼくが書いた上野龍についての解説文にも目を通し、100点の展示作品もゆっくりと観てからの演奏。頭が下がります。楽しい夜はあっという間に過ぎ、最終の京浜東北線に乗るために坂田さんは地下鉄の階段を降りて行かれました。