曾祖父の隠し子から電話がかかってきたのは、真っ白い八月のおやつ時だった。
あなたたちのおじいさま、つまりはわたくしたちの父のことですけれども。ゆっくりと階段を下りるような声音で、隠し子は言った。お骨をいただきたいのです。あなたたち一族のお墓にある、わたくしたちの父の骨を、全部とは申しませんから、半分わたしていただきたいのです。
彼女たちがいう先祖の墓は、蜃気楼が見える北の港町にあった。かつては夏がくるたび、避暑がてら曾祖父のもとを訪れていたが、彼が逝去してからはとんと足が向かなくなった。曾祖父に忠誠を誓う実業家が、都にいるわたしたちのかわりに毎月かかさず菩提を弔って花をたむけ、実業家が死んでからは、彼の双子の娘がその仕事を継いだ。電話をかけてきたのは、双子のうちの片われだった。
ついに来たわねえと、冷やし抹茶をすすりながら母はつぶやいた。曾祖父に愛人と隠し子がいるという噂は、もう何十年も前からあった。食道楽、洒落者の名をほしいままにし、新聞記者という花形職業で金と地位をたずさえ、町で噂されるほどの美貌を持つ曾祖父のことだ。いないわけはない、どこかにいるはずだと、妖怪にたいするような思いを抱えながら、しかしこの半世紀、わたしたちはついぞ、その正体をつきとめることができなかった。ところが曾祖父が鬼籍に入って十数年、隠し子の陽炎がすっくと立ち上がり、わたしたちの前にあらわれた。盆には、さまざまな者がやってくる。
曾祖父に忠誠を誓う実業家を、わたしたちは「やくざの金しゃちさん」と呼んでいた。若かりしころに組に所属していたその男は、曾祖父と出会って足を洗ったのち、自宅に巨大な金のしゃちほこを飾る実業家となった。
新聞記者の曾祖父は、とある事件を取材しているときに彼と知り合った。当時、彼は地元では有名な組の名簿に名をつらね、数人の部下を持つ出世頭だったが、この世界を抜け出したいと望んでいた。曾祖父は彼を支援し、いくつかの指先と引き換えに自由を手にいれた男に、持ち前の人脈をつかって社会的地位と仕事を与えた。まとまった金はじゅうぶんにあったから、それを資本に元組員は実業家となった。官公庁を取引先にむかえ、洞窟の水を掘る採掘権を競り落とせたのは、曾祖父の口聞きによるものだった。
いかにも組出身の男らしく、実業家は曾祖父、そして曾祖父の一族に忠誠を誓った。孫たちが遊びにやってくるからと、曾祖父が電話一本で呼びつければ、ものの数分で馳せ参じた。幼いころは、案内をしてくれるおじさんが仕事中に呼び出された社長で、乗せられた車が社長用の黒ベンツであることなど知らなかった。
実業家が連れていってくれた料亭では、花びらのように並べられた河豚と桜えびの刺身を、大皿で何枚もたいらげた。骨の奥まで箸を差しいれ、脂がのった焼き魚をつついていると、食いっぷりがよろしい、さすがお孫さんだ、こんなに小さいのにものの味をわかっておられる、と頭をなでられた。
曾祖父が死んだのち、曾祖父邸は実業家が買い取った。強欲な親族によるかすめ取りに心を痛めていた祖母にとって、父の右腕である実業家の助けは、経済的にも精神的にも、たいへんな助けとなった。
曾祖父の邸宅は、港から少し歩いた先にある、こじんまりとした美しい日本家屋だった。硝子張りの廊下からながめるこんもりとした緑、時をきざんだ黒い木目の廊下、博物館めいた赤い絨毯、黒い革張りのソファをしつらえた書斎、かちこちと心臓をたたく骨董の古時計、曾祖母が愛した着物と化粧台、真冬には雪を反射して鏡のように白くなる畳、ここは洒落者の曾祖父がつくりあげた小宇宙だった。
祖父の後継者は、書斎をつぶして壁をうち壊し、テニスコートのようなダイニングルームをこしらえた。中国から買いつけた龍柄の壺、人の背丈ほどもある金のしゃちほこが、金剛力士像のようにぬっくと食卓を囲み、都からやってきたよそ者を見下ろしていた。
そう、あの食事会のとき、確かにわたしは彼女たちに会っていた。新しくなったおじいさんの家に、ぜひ遊びにきていただきたいという言葉に招かれ、わたしたちは金のしゃちほこに出迎えられた。テニスコートの真ん中で、実業家とその双子の娘とともに、実業家の妻がつくった料理を食した。ここが、曾祖父がつくりあげたもうひとつの家だと知らずに。
近すぎて、誰もわからなかった。彼らはすべてを知っていた。曾祖父は、長年連れ添った愛人に子ができたことを知ると、自分の右腕、頼みを断らない舎弟に愛人をめとらせ、彼の子として育てさせたのだった。実業家は、恩人の愛する女を妻とし、恩人の種からうまれた双子を娘と呼んだ。
実業家は、曾祖父の右腕であり、異界にいきる片われであった。もし曾祖父にもうひとつ体があったなら彼が送っていたであろう人生、彼が送りたかったであろう人生を生きた。
これが、指先を失って得たかったものなのか。古いコンクリートの牢獄から、青空の下の新しい牢獄へと移っただけではないのか。彼の人生は、望みはどこにあったのか。世の中にはなあ、意外と知らないことがあるものだよ。それが大人の世界ってもんだ。幼いころに聞いた実業家の言葉が、うるさいほどに木霊するばかりで、他はなにも聞こえない。
ふたりの男は、秘密を墓の下にまで持っていった。もし双子が沈黙を守れば、謎は謎のままとして風化されていただろう。残された当事者はもう誰もいなかったのだから。双子はもう還暦をすぎており、ふたりとも結婚していなかった。彼女たちが受け継いだのは血だけであったが、それを残しはしなかった。残す者ではなく、残され消えていく者として、あの小さい壺にはいった灰色の砂を望んだ。
金のしゃちほこと龍の壺に囲まれた、あの奇妙な食事会のことを思い出す。金のしゃちほこに見おろされながら食事をすることに慣れていないわたしは、お手洗いに行くといってダイニングルームを抜け出した。かつて寝転がり気ままに遊んだ畳部屋は、てらてらと輝くフローリングに変わっていた。ただ、一面硝子張りの廊下だけは曾祖父が主であったころと同じで、わたしはそこに立ちすくんだ。
廊下には、日本画家であった実業家の妻、曾祖父の恋人、隠し子の母が描いた日本画がかけてあった。あけびとかぼちゃが引き立つよう、背景は深い緑で塗られ、金箔の薄片が夏の光を浴びてきらめていた。かつての曾祖父の家だったら、すばらしく映えるであろう、美しい絵だった。この耐えがたい空間の中で、彼女の絵の近くでだけは、息ができる気がした。
ああ、わたしは曾祖父の子孫なのだと思う。曾祖父が愛したであろう絵に、わたしもまた知らずのうちに惹かれていた。
なぜ気がつかなかったのだろうか。あの絵は曾祖父の美しい家にこそ飾られるもので、金のしゃちほこの家には、まるで似合わなかったではないか。あの家は、交わらぬ感性が切り張りされた、異形の空間だった。あの夫婦が共有するものはただひとつ、お互いがお互いの方法で愛した男の存在だけだった。
何十年も待っていたはずの隠し子からの電話は、わずか数分で終わった。あなたたちにわたす骨など一片たりともありません! 祖母による退魔の一喝は庭の栗の木を揺るがした。鳥が逃げ去り、いくつかの実がことりと落ちた。
このようにして、隠し子の幻は、太陽が庭先に転がっているかのような真夏日に、忽然とあらわれては消えていった。もう、日常を破る電話の音は聞こえてこなかった。真っ白い光のなか、庭の緑は、すべての言葉を押しこめて燃え上がっていた。そしてようやく、廊下にかけてあった深緑は、あの洒落者の曾祖父が、もっとも愛した色であったことを思い出したのだった。