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2F/当番ノート

みみこちゃんの恋人たち(4) 31点

当番ノート 第12期

トン トン

音は扉にじんわりと吸い込まれ、差し込んだ微かな日差しと共に覗いたのは、
しっとりとしたノック音によく似合う落ち着いた男性でした。
「場所はこちらで合っていたかな」

はい、大丈夫ですとねこたくんがエスコートする傍らでみみこちゃんは
どうして自分がこの人のことを好きだったのかを、即座に思い出しました。
音を立てずに扉を締める腕の振る舞い、椅子へどっしりと腰掛ける体勢、
彼の所作全てが、十九歳当時のみみこちゃんにとってはたまらなく魅力的でした。

「しげさん、でお間違いないですね」
「ええ」
男性は軽く頷くと、吸い込まれそうな黒々とした瞳でじっとみみこちゃんを見つめました。
「いい女になったね」

例えばその台詞を、かっちゃんや、やすしさんに言われていたなら
みみこちゃんはきっと「何様なの」と笑ったり怒ったりしていたことでしょう。
けれど、目の前の優しくも厳かな瞳を持った男性にはそれを言う権利があると
少なくともみみこちゃんは思っていました。
十九歳のまだ礼も儀も知らない猿のような小娘を
少しずつ大人の女性にしてくれたのは、何を隠そう彼でした。

「二人の交際期間は一年とありますが、別れの原因についてはどうお考えですか?」
窓の外の雨上がりの世界からは、チチチと鳥の鳴き声が聞こえてきます。
男性はほんの少し眩しそうに目を細めながら
「これは恋じゃない、と彼女がそう言ったんだ」
と微笑みました。

「恋じゃない?」
ねこたくんは怪訝そうに眉をひそめ、チラリとみみこちゃんの方を向きます。
尋問を始めるかのようなねこたくんの視線は、もうすっかり蝶ネクタイの似合う男の子のものではありませんでした。
「私は…本当にしげさんのことが大好きだったの。」
過去の恋の弁明を、全てを知っているかのように微笑む対面の男性と
何かを疑うかのように視線を寄せるねこたくんのどちらへ向けて行うべきなのか
みみこちゃんには最早判りませんでした。

「貴方はとても物知りで、私に色んなことを教えてくれた。
 欲しいものならなんでもくれようとしてくれた。
 悲しいことや不安なことは全部取り除こうとしてくれた。」
格子窓から差し込む光が机に反射して、みみこちゃんの瞳をうるうると輝かせます。
「しげさんが私に見せてくれた世界は、私には全て新しく、そして美しかった」

男性は腕を組み微笑むだけで、何も言葉を挟もうとはしません。
もしかしたら、みみこちゃんの言いたいことの全てを本当に知ってしまっているのかもしれません。
横にいたねこたくんは何か言いたげに口を開けていましたが、
キラキラと語るみみこちゃんに少し見惚れ、言い出すきっかけを見失っていました。

「でも一つだけ、美しくないものがあったの」
「貴方が私を好きだったということ」

この時、みみこちゃんは初めて深く黒い瞳の奥を真っ直ぐに見つめられたような気がしたのでした。
「しげさんが私を抱く時の熱い吐息や、人混みで私の肩を寄せる時の腕の振る舞いが
 貴方の居る美しい世界に相応しくないと思ってた。
 私の好きな貴方に相応しい所作じゃないと思っていたの。」
男性は怒らず、呆れず、微笑んだままで
「僕に合わせて、僕の世界の言葉で語ろうとしなくっていいよ。
 冷めた、とか退いた、とかうんざりした、とか
 君の持った言葉のままで語ればいい。」
と言うと、みみこちゃんはああこの人にはもうきっと一生勝てないわと耳を真っ赤にしました。

「それで、恋じゃない、ね…」
ようやく口を開いたのはねこたくんです。
「ということですが、しげさん。みみこちゃんとの恋に点数をつけるとするなら、如何しますか?」
不思議なものです。
昔の青い恋人に「あれは恋いじゃ無かった」と言われては傷付いて、
また別の過去の恋人に「あれは恋いじゃ無かった」と言い捨てる。

「そうだねえ、あの頃はまだ君も若かったから…三十一点というところかな」
「おや、意外に辛口」
けろりとしたねこたくんの返答にハハハと声をあげて笑った後
「でも、今の君ならどうなるか判らないな」
なんてことを言うので、みみこちゃんは耳以外も赤く腫らしそうになりました。

玄関口で仲良く二人並んで男性を見送った後、
「随分身勝手な恋をしていたものですね。」
とねこたくんは吐き出しました。
「恋だったり、恋じゃ無かったり、忙しい人だ」
「恋じゃなくっても人を好きになることはあるわ」
「『ヒトとしてスキ』ってヤツですか」
やけに馬鹿にする口ぶりなので、みみこちゃんは何か言い返してやろうとねこたくんに向き合うと
過去の恋人たちの一人目を迎え入れた頃に比べ、ねこたくんの身体が少し大きくなっていることに気が付きました。
「なんだかねこたくん、大きくなってない?」
「時期が来れば大きくなると言ったでしょう」
ねこたくんは不機嫌そうにプイと明後日の方角を向いてしまったので
それ以上みみこちゃんは追求しませんでした。

そういえば、みみこちゃんが熱烈に過去の愛について語っていたあの時
ほんの一瞬でも見惚れてしまったことがどうやら、ねこたくんには不覚だったようです。

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