…ン
思えばこれまで、それなりの数は恋をしてきた。
結ばれた恋も、結ばれなかった恋も、
千切れた恋も、自ら解いた恋も、
…ポーン
こうして並べて見てみると、どの恋もそれぞれ刃を隠し持ち、
輝いていた頃の思い出を抱きとめながら、皆同様に鈍色に光って見える。
…ピンポーン
全て輝いて見えたということを裏返せば、
どれも突出して光っていないとも言える。
差異が無いこと。
全部同じに見えること。
ピンポーン
まどろみを裂く音に意識を向け、今日は朝から予定があったことを思い出した。
カーテンを異様に嫌う彼が居た頃は、瞼を射す朝陽によく起こされたものだけど、
私一人になり念願のカーテンをつけるようになってからは、それも無くなってしまった。
もぞもぞと枕元に置いておいた携帯電話で寝坊の確認をして、
寝癖もなおざりにやってきた引越し業者へ挨拶をした。
私は今日、このアパートメントを引き払う。
『僕と君との恋が、運命だなんて思わないでね』
彼の置いていった言葉は呪いのようであり、何かの鍵のようにも思える。
その言葉を聞いてはじめて、ああ私はこの恋を運命と呼んでいたんだと気が付いた。
『君と僕は、僕が死んだその時にたまたま恋人同士であっただけに過ぎないんだよ』
状況は、人が何かを運命づけるには十分すぎる程で
もう二度と手に入らない物だと固執してもみたけれど、
そんなの、今まで出会ってきた大抵のものはもう二度と出会えないものだというのに。
『君はまた懲りずに恋をするよ。僕がそれを望んでも、望んでいなくてもね』
『ねこたくん、私に新しい恋人が出来たら寂しい?』
『うーん、僕はもう死んでるしなあ…別に、どうでもいいかな』
彼と一緒に借りたこの部屋は、一人で住むのに広すぎるという事は無かったけれど、
私の給料で家賃を払い続けていくには、少々難しいものがあった。
大正時代からの面影を残したまま、水回りだけをリフォームした物件は彼が是非にと決めたもので、
部屋のあちこちに漂う残り香を、少しでも身に浸らせようと半年間は頑張ってみたけれど、
経済状況という厳しい現実に、ちっぽけなロマンは手も足も出なくなった。
『僕と君との恋が、運命だなんて思わないでね』
私が私にかけた呪いを、彼は解きにきてくれたのだろうか。
ねこたくん、なんて変な名前を名乗って
過去の恋を引き連れて、なんて小細工をして。
「では、ここにサインをお願いしまーす」
彼の遺した物は大方処分してしまったので、
お一人様パックで済んだ引越しサービスは、あれよあれよという間に終わってしまった。
ベットが運びだされ、ランプは梱包され、カーテンは取り払われ、
部屋には自ら新居に持ち込もうと思っていた鞄一つだけが残った。
てっぺんに上った陽が少しずつ傾き、西日になりゆく光が部屋には差し込む。
また今日も、部屋は翳りゆくのだろう。
ドアを開くと、思っていたより空気が冷たくて驚いた。
いつの間にこんなに寒くなっていたのだろう。
そういえば、結局昨日は一歩も部屋から出ないままだったなあ。
『どうでもいいって、なによう』
『だってさ、君が思うよりずっと早く、きっと僕は君を忘れるよ』
『そういうとこ、全っ然変わんないね』
『別に死んだからって、全知全能の神になれるわけじゃないしなあ…』
今改めて、私は私に問いかける。
ねこたくんとの恋に点数を点けるとしたら?
『六十点かあ…』
『不満なら、今日のみみこちゃんはちょっと可愛かったから五点おまけしてあげても良いけど』
『そういうのはいらない』
…少し考えて直ぐに、その思い浮かびかけた答えを閉じ込めた。
まだ私は彼との運命の恋を信じていたい。
せめて、次の運命に出会うまでは。
「さようなら、ねこたくん」
伽藍堂になった部屋を振り返り、独りごちた。
きっと私はまた恋をするのだろう。
誰が望んでも、望まなくても。