未来のことはわからないけれど、みんな未来のようなものを探している。特に21世紀になってからは。大きな変化があり、大きな変動があり、いつまでこのままでいられるのかわからなくなった。でも毎日は途切れなく続いているし、明日もきっとやってくる。
子どもの頃から作家になりたくて、ずっと色んな人に作家になることを話してきた。夢を語る時に、聴き手が語り返すことは色んな意味がある。心は単純に、話すことに好意的か、あるいはそうではないかということを越えて、何かのメッセージを送っているからだ。誰にも意識できることと、意識できないことがあり、その意識できないところで未来は感じられている。
例え話をすれば、好き嫌いみたいに、誰にもある簡単な感情すら説明することは難しい。なぜあなたのことを好きなのか、その理由を意識的に答えることも。そういう部分に直感的な力は宿っているし、誰にもそういう直感的な力がある。感じることを言葉にしてしまうことは、とても難しいけれど。
今日、僕は彼女と目隠ししながら音楽を聴いていた。僕が音楽を流し、その音楽がどれくらい新しく感じられるか、古く感じられるかを、事前の情報を除いて音だけで感じてもらった。1950年代の音楽と2010年代の音楽が全く違うものであることは誰でもわかることかもしれないが、1990年代と2000年代、2010年代の音楽にも違いがあり、音楽といえど絶えず移ろいゆくものだということが感じられた。
僕は、その時代、その時代にその時、自分が聴きたいと思う音を絶えず探し続けてきた。きっと個人的な傾向のようなものがあらわれているだろう。でも、年の離れた彼女がそういう僕の音楽を聴いてきた歴史のようなものを、簡単に飛び越して、直感だけで音から色んなことを感じる様子をみていると、その時、その時、心を重ねた音楽なんて、あっという間に時代遅れになってしまうものだと思った。音は時代の空気を丸ごと背負いながら、この世界の影の部分をしっかりと受け持ち、そして静かに消えていく。
彼女はどれが古い音楽で、どれが新しい音楽か、まるで知っているかのように答える。どれだけたくさんの音楽を聴いてきたとしても、そういう音の聴き方が、聴くことの本当の意味を教えてくれている。
だから、誰もが未来について見えない心の奥で知っていたとしてもおかしくはない。またたく天の星々にだって何かの意味が隠されているように。そしていつかもう一度、鮮やかに世界は生まれ変わるだろう。