超一流のアーティストはほとんどみんな、人生の核となる営みについて「お金のためにしてるんじゃない」と口を揃える。大好きな仕事に明け暮れながらもアパートの家賃を払うのに必死だった私は、「ケッ、カッコいいなー、死ぬまでに一度はそんなふうに言ってみたいもんだぜ!」と思っていた。「生業」が経済活動として軌道に乗ったとき初めてそんなふうに言えるようになるのだろうと、そう思っていた。でも今は私自身、「お金のために書いていること」と「お金のために書くのではないこと」の区別がとても曖昧な状況に身を置いている。そしてそれが仕事の順調さとはほぼ無関係であると、身をもって知っている。
有名なクリエイターが昔、「ものを創る人間なら、TwitterのようなSNSにかまけていてはいけない」と年若い友人を諌めたエピソードを鮮烈に憶えている。「流れては消えていく言葉に踊らされてはいけない。じっと手元に書きためて、それを解き放つべき時機を待つことも大事だ」と。この話を聞いてから私は「そんなこと言ったって、この人もいずれきっと毎日つぶやくようになるよね」と信じて待っていた。実際その通りで、今では彼もTwitterヘビーユーザー、ほぼ日刊でものすごい量の言葉を投稿している。流れては消える言葉といってもなかなかにしぶとく、消しゴムをかけても水拭きしても、おかしな痕跡が残ったり、化石のように発掘されたりする。若者にお説教していた彼も、その面白さに目覚めてしまったのだろう。
先日はヨガの講師に、「呼吸を意識して身体と向き合いつつ、同時に、呼吸によって無意識にもなれるように」という教えを受けた。「書く」ことになぞらえるとその意味が少しわかる。気心知れた相手とのとめどなく続くおしゃべりの環のように、書き出したら止まらなくなる言葉があり、たった一人に宛てて、不特定多数に向けて、プロアマ問わず、みんな深く息を吸って吐くようにそれを発散させる。できれば自分の意思でコントロールしたいと願えども、とっくに拡散されてしまった後になって特定の形状にかき集めるのは難しい。対価と評価がちぐはぐでも、また新しく息を吸ってそれを続けなければ、私たちはおそらく死んでしまう。
どこか遠くの知らない場所で、誰か別の人に新しい名前をつけられている、よく見慣れた猫を眺めるのと同じ、奇妙で興味深い感慨をもって、自分が書いたものがどんどん読まれていくのを、眺めている。きちんと首輪をつけておくべきだったよ、と私を叱る年配のクリエイターの膝からまた別の猫が逃げる。放たれたものの行き先を意識しすぎないことです、とヨガの先生は言う。連れ戻さなかったんですか、血統書付きなのに! と私が惜しがると、超一流のアーティストは笑う。どうでもいいよ、僕が飼っていたその猫は、もともと僕の所有物ではないのだから。
ものを書くこととお金について、無償で書いてみた。この話にさしたるオチはなく、続きはきっとまた自分の手元で書くことになるのだろう。一度も部屋の外へ出したことのない飼い猫を「アパートメント」へ送り込んで、いつの間にか住まわせるような感覚だった。誰にも見向きもされず、おやつの時間には私の元へまっすぐ帰ってくるかもしれないと思っていたが、どうやら新しい居場所を見つけ、たくさんの人に撫でてもらえたようで、よかった。もうしばらく、ここの管理人さんたちに預けておくことにする。
(おわり)