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2F/当番ノート

イメージの海で #1 失われていくイメージ

当番ノート 第22期

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最近、またティラノサウルスの姿が更新された。研究が進むにつれて毛が生え、顔は大きく前足は添えもののようになり、今まで私たちが親しんできた獰猛な肉食恐竜のイメージとはかけ離れつつある。
それは「正しい」姿ではなかった。だからといってイメージ自体が急に消えるわけではないが、それはかつて実在した生き物という肩書きを失い宙吊りになってしまった。
やがて教科書の図版は描き換えられ、ジュラシックパークで機敏に動くあの脅威的な姿には無知ゆえの滑稽さという印象がついて回るようになるだろう。
新しく公式に発表されたイメージを徐々にみんな不格好とは思わなくなっていくが、同時に今までのイメージに付随していた、恐竜の王者にふさわしい風格もはがれ落ちていくかもしれない。

新しい発見によって失われたイメージとして、他にも大きなもので冥王星が挙げられる。
冥王星は1930年に発見された。名前は、当時14歳の女の子がローマ神話の冥府の王プルートゥにちなんで名付けたらしい。その後、衛星にはそれぞれ神話からカロン(冥府の河の渡し守)、ニクス(夜の女神)、ヒドラ(地下を守る怪物)、ケルベロス(冥界の番犬)、ステュクス(忘却の河)という名が与えられ、冥王星を中心に禍々しいパーティを組んでいる。
しかし90年代以降他にも太陽系の外縁を公転する天体が続々と発見され、2006年に準惑星に降格となった。冥王星自体は変わらずそこにあっても、太陽系の一惑星として数えられるかどうかは、家族と遠い親戚くらいの大きな差がある。約70年という、星の寿命に比べれば一瞬の間ににわかにそれは光を与えられ運命的なイメージを託されたが、今や神秘性を失って背景の灰色の天体群に沈みつつある。私たちが「水金地火木土天海冥」という語呂合わせを覚えている間はいつも最後で詰まってその欠落に気づかされるが、新しい覚え方が出来てそれも忘れられていくだろう。

科学の中のイメージの歴史を辿れば、天動説から地動説への転換に代表されるように、規模の大きな書き換えがいくつかあった。
例えば地球が丸いと分かる以前、地の果てには海が、海の果てには崖となった滝が想定されていた。崖のある世界、端まで行けば「落ちる」可能性のある世界はどんなだっただろう。
地球平面説での崖や越えられない山、あるいは下で世界を支えている亀と象の背中のふちにせよ、そこには未知のものとの断絶がある。その「果て」のイメージは人がこれまで失ってきた中でも最も大きいものの一つではないだろうか。一方向に進むとやがて一周して元の場所に戻ってくることを知っている私たちにとって、天国や浄土が空の上にあるイメージはそう変わらずとも、地獄が地の下にあることや、奈落の底といった二度と這い上がって来れない場所に追放されるという感覚は恐らく神話の時代ほど切実なものではない。
そうして丸い地球のイメージは決定的な脱落の恐怖を取り去ったが、徒労という別の絶望をもたらしたとも考えられるかもしれない。

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科学の分野のように、そのイメージが事実に即しているかどうかで持つ力が変わってくる場合と様相は異なるが、ごく身近なところでもたくさんのイメージが生まれては失われている。個人の頭の中で、家庭や学校で、あらゆる職場で、インターネットの中で。

例えば、生まれる前の子供のこと。子供の存在を知って両親は想像を膨らませる。どんな顔をしてどんなふうに育っていくのか。名前の数だけイメージが生まれ、想像の中で一人歩きを始める。多くの場合男の子か女の子かの場合に分けて考えられ、生まれなかったほうは台風のようにだんだん勢力を弱め忘れられていく。ただ極端な場合ベルサイユのばらのオスカルのようにイメージが力を失わず覆い被さる場合もある。
命名と同時に選ばれなかった候補のイメージは失われるが、やがて子供が成長してから自分の名前の候補を聞いたとき呼び戻され、今度は子供の中で、その名前だった場合の自分として蘇る。まだ自分では何の選択も出来ない時期に、生まれて一番最初に発生する平行線への分岐点。イメージ上の双子や三つ子。自我が固まるにつれその魅力は薄れるが、思い返すたびに自分と同じ背丈まで成長しているだろう。

かつて飼い猫の死をいたく悲しんで、猫座を作ってしまった天文学者がいた。彼は自分の猫を、猫全体に押し拡げることで不滅を試みた。けれどあまりに個人的なためか国際標準の88星座を決める際には不採用の憂き目に遭い、猫を形作っていた線はほどけていった。
思い起こされることのなくなったイメージは、スペースデブリのように思念の宇宙を漂っている。
そこではねこ座が輝き、かっこいいティラノサウルスが闊歩し、家に帰れば末っ子の冥王星がいるだろう。ありとあらゆる名前をまとって浮かぶ、曖昧な顔をした一面の赤ちゃん達。
イメージは死なない。名前を呼ぶだけで、しっぽを思い出すだけで、光よりも早く何度でも蘇る。

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写真家、書店員

Reviewed by
横山雄

「イメージは死なない」それは呪いでなく、ロマンである。
たとえやがて物質的な接触を失う時代を迎えたとしても、私たちは本と出会い続けることが出来る。
彼女の連載もまた実体を持たない不滅の本であり、何度でも画面の中で再生するロマンなのだ。

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