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2F/当番ノート

イメージの海で #5

当番ノート 第22期

#5 音とイメージ(2)

音と言葉を考えるとき、韻は大きな要素の一つだ。けれど昔ながらの詩歌の世界では日本語での押韻は欧米の言葉に比べ影を潜めている。古くは漢詩の頃から韻の文化は知られていて、日本語でもこれまでに多くの人が挑戦してきただろうし、昭和期にはマチネ・ポエティックという定型押韻詩を作ろうという試みもあったが、いずれも定着はしなかった。日本語は一つの子音に一つの母音という単純な音節構造のため似た音が多く、センテンスが長くなるほど韻を踏んでいるということが分かりにくいのかもしれない。また名詞が文末に来ることが少なく選択肢も限られる。

けれど日本語で韻が踏まれることがないわけではなくて、決まり文句やことわざでは韻があり、その効果も確かに感じられる。単語や短文レベルでは結構見つけられるのだ。
たとえば似た意味を並べて強調するものではのらりくらり、似たり寄ったり、至れり尽くせり、にっちもさっちも、よりどりみどりなど。
「なんやかんや」など重ねた2つめは響き優先で強引に持ってきていたり、分解すると全く意味が通じなかったりもする(うんたらかんたら、ちんぷんかんぷん)
反対の意味を並べるものだと良かれ悪かれ、のるかそるか、大なり小なり、行ったり来たり、組んず解れつなど。
相互のやりとりを表すものでは抜きつ抜かれつ、持ちつ持たれつ、差しつ差されつなど。
他にも「~たり~たり」「~つ~つ」を数え上げればきりがない程ある。これらはシーソーのようなリズム感やユーモアを生み、全体の印象を軽くしてくれる。
てんでばらばら、宙ぶらりん、トントン拍子、行き当たりばったり、といったように擬態語や擬音語が他とくっついて一語になっているものに見られるように、シーソーのように韻を踏むこれらの単語もオノマトペに近い言葉遊びから来ているのだろう。
「抜き足差し足忍び足」と「ホップステップジャンプ」が似たようなかたちで韻を「踏んで」いたりするのも面白い。

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音や響きが特に重要になってくるのは、何より名付けのときだ。人に限らず商品や新しい現象などに音を選んで与えるという行為。名は「読む」ものというよりむしろ「呼ぶ」ためのもので、その影響をはかることは出来ないが繰り返し呼ばれる程に確実に名の縛りは強まっていく。
音と名の間には周りのイメージを巻き込んで循環していくような相互作用が働いていて、ある名前を持つものの性質が音のイメージに反映され、名付けられたもののイメージもまた音から影響を受けて変化していく。例えば濁音の響きの重さや強さに影響された「ゴジラ」という名前がやがて定着し、しりとりで「ご」がつく単語を探したときにゴジラがすぐ思い浮かぶようになるといったように。

名前は音や漢字のイメージの元に名付けられたものを縛るだけでなく、その魂を縛ってとどめるという意味合いもある。人ならぬ者に名前を呼ばれて返事をすると影踏み遊びで影を踏まれたときのように動けなくなるといった類いの話が多いように、名は呪いであり影、つまり霊的な存在の証だ。誰かを支配するには、その人固有の呪文である名前を奪いさえすればいい。大抵名前の代わりに与えられるのは番号で、「千と千尋の神隠し」でも名をはがされた千尋に残されたのは1000というただの番号だった。そんなふうに名が奪われることや、逆に名で目上の人を支配してしまう事態を避けるために、明治までは通名と忌み名(本名)を分ける風習が広くあった。名にまつわる霊的な影響は通名や仮の名に肩代わりさせ、本名は親と本人と配偶者しか知らないことさえあった。今はそういった認識が薄れ多くの人が本名を使っているが、市長や先生、天皇、宛名書きの上様などに敬意を表して名前を避け役職名で呼ぶあたりにその名残が残っている。

最初の回で「名前を呼べばイメージは何度でもよみがえる」と書いたが、呼ばれる側にとっても名前を呼ぶ声というのはアイデンティティを確認してくれる大事なものだ。名の「縛ってとどめる」という作用は決してマイナスの意味ではなく、抜け出してさまよう魂を身体や地上に結びつけてくれるということ。千尋はハクのくれたおまじないのかかったおにぎりを食べて忘れかけていた名前を思い出し、ハクは千尋に呼ばれて奪われていた名前を取り戻す。近しい人の記憶を手繰って声を思い出そうとするとき、真っ先に再生されるのはその人が自分の名前を呼んでくれる声だったりする。呼んでくれる人たちやその記憶が、今ここに存在を与えてくれていると言っても良い。自分もまた誰かの記憶の中でその人の名前を呼んでいるのだろう。

(複数の名前を持っている状態というのは面白い。特に偽名やペンネームを自分で名付ける場合はその名に与える人格を自分で規定することになる。職業上の必要で目立つ/目立たない名前を名乗る人もいるが、特に作家のペンネームには気楽で変わったものも多い。そのへんにあったもので決めた人、海外の著名人を漢字に当てた人、性別で作品が判断されないようあえて中性的な名前にする人もいる。また、作風やジャンルを分けるために使う場合も。小説家の福永武彦は加田伶太郎(「誰だろうか」のアナグラム)の名前で本名の時と全く違う推理小説を書いていたし、竹久夢二は同じ読みの幽冥路(冥土への旅路)で詩を書いていた。服を着替えるようにコロコロ変える人もいて、30回も号を変えた北斎が75歳にして名乗った「画狂老人卍」なんかは有名どころだけどすごい。)

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呪詛も祝詞も経文も、すべて唱えて音にすることで効力が立ち上がる。それらは儀式とともに唱えられ、一字一句間違えないことが必須とされているものも多い。誰かを恨むとき、幸あれと願うとき、災厄をはねのけたいとき、私たちはすべて言葉と音の力を信じて託してきた。
得体の知れない恐ろしい出来事に遭遇した時、ただただ自己流の謎の呪文しか唱えることができなかったという話も聞くけれど、結構笑い事ではない。
言葉の魔力は物理的な力とは対極にあるが、それは自然の大きな災禍や生き物の生死に対するどうしようもない無力感の中から生まれてきたのだろう。呪術の時代から遠く隔たり、天気が予報できるようになり寿命が延びた今でもそれは変わらない。困難に手も足も出なくなったとき、最後に残るのはやはり言葉だ。言葉があれば祈ることができる。祈りが叶わなくとも、祈ること自体が救いになったりもするのだ。

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写真家、書店員

Reviewed by
横山雄

親が子に、科学者が物質に、芸術家が作品に。私たちは音と言葉で輪を作り、かみさまのようなものを留めようとしているのかもしれない。
移ろい行くもの、見えぬ触れられぬもの、揺らぎ形を変えるもの。
優しい言葉が草木を育むようにその魔法がかみさまに届くことを、私たちは信じてまた文字を綴るのかもしれない。
今回の文章も、一つの長い祈りのように私は感じるのだ。

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