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2F/当番ノート

フランスと旅〜voyage.

当番ノート 第22期

st lazare
Claude Monet 《Saint Lazare》, 1877.

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(修道院を改装したパリの科学技術博物館。交通手段の棟。)

Voyage:旅。距離のある場所への移動。男性名詞。

Louis Antoine de Bougainville(ルイ・アントワーヌ・ドゥ・ブーガンヴィル)は、18世紀フランスの探検家。
1766年、学者達を連れて、世界一周の旅に出る。
マリーアントワネットが”Japon”(=漆工芸品)を好んで蒐集していたことからも、フランス人の極東への興味は窺い知ることができるけれども、ブーガンヴィル一行はさらに「未開の地」へと旅立つことを選んだ。

彼らはトゥアモトゥ諸島などの南太平洋の島々を探検し、1771年に帰国。その後、『世界周航記』を出版した。そこでは、ブーガンヴィルが見た「美しき野蛮人」(自然と共に生き、所有の概念に毒されない人々)について綴られている。

bougainvillier
(ブーゲンビリアはオシロイバナ科の植物。名前は勿論、ブーガンヴィルから。
一行のうちの植物学者、Philibert Commersonによりブラジルで発見された。のちに花言葉は「冒険」となる。)

人々は昔から、見知らぬ土地への憧憬を抱いてきた。
ゴーギャンはタヒチに恋いこがれ、ついには家族と別れてまで移り住んでしまったし、
20世紀初頭、黒田清輝や佐伯祐三を始め数えきれないほどの洋画家達が、印象派やキュビズムやエコールドパリなど、最先端の芸術を体感しようと、フランスに渡った。
皆、刺激と知識と新たな技術を求めて、何ヶ月もかけて海を渡った。

片岡球子なんて、70代になってからヨーロッパに行ったりもしているわけで、そこで出逢ったブールデルのブロンズ像に感銘を受け、80代、90代と果敢に自らの画風を作り変えていく。それまでの装飾的な画風から抜け出し、彫刻で感じたような裸婦の身体の重みを表現しようとした。

70代から90代までの、作風の変遷を辿ると:
ポーズ1
79歳の作品。最初は、女性のフォルム重視で、デザイン的。

ポーズ3
80代で徐々に、対象の質量/周りの空間をも描き出そうとしている。周りの花は取り払われ、質量の知覚、が促される。ヨーロッパで彼女が観たものが、アウトプットの工程で消化されていくのが分かる。
ポーズ4
そして90代、ついに行き着いたのは、魂の気配。もう、誰も追いつけない、誰も真似できない境地に達した人の作品。画家が旅で得たものが昇華され、この世に新たな世界が生まれた。

旅はしばしば、己のアイデンティティの付随どころ(ここでは主に自国の文化)や、その在り方を再認識させる。
藤田嗣治は日本からパリに渡り、画壇で成功を収めたのち、様々な国を旅している。
「十八年間の巴里生活から暫く脱して、大自然の空気を吸ってみたくなった、この最近の二年間は全南米、並に、メキシコを歩いた」
現地の美術学校で、「メキシコ人の個性が遺憾なく発現されて」いるのを観た藤田は、「日本の自由画を初め、児童画は益々西洋画に近く、水彩に白色鉛筆にしろ、材料の関係からも国民性を失っている、誠に残念なことである、世界中に誇るべき日本の紙、完全なる日本筆を持ちながら、外国伝来の材料を使用する事は残念な事だ。」と綴っている。
(講談社文芸文庫 藤田嗣治著「腕一本 巴里の横顔」より)

藤田
藤田嗣治「自画像」1931.

旅の醍醐味のひとつとして、絵や音楽が生まれたその場所で、出逢い直すというのがある。作品が作られた土地の空気や光、匂いの中で、画家の心境を慮りながら。
環境と芸術作品、その密接な関係性。

nice
(まばゆいばかりのニースの街。)

グレイッシュで冷たい、一月のパリ。
パリ政治学院の容赦ない試験期間が終わって、逃げるように街を飛び出した。行き先は、南仏、ニース。
TGV(高速列車)の窓から見える景色は、パリを出発して2時間くらいで、どんどん変わっていって、風景が、熱を帯び出す。明度と彩度が、ぐんぐん増していくのが分かった。
びっくりしたのは、草木も生えていない、ゴツゴツした岩土の下にも、生命の営みが強く強く感じられたこと。冬の単調な風景なのに、土地一帯に、エネルギーが「ずもももも....」と渦巻いている感じ。
ああ、ゴッホが南仏に来た理由が分かったよ。そんな風に思った。
ゴッホ
Vincent van Gogh「黄色い空と輝く太陽のオリーブ林」1889.

列車を降りたら、皮膚で感じる太陽の温かさに、また驚いて。
市場に並ぶ野菜の弾ける鮮やかさ、
海のまっすぐな碧さ、
空の曇りなき光の強さ、
緑のふくふくとした豊かさ、
それらひとつひとつが、命を発していた。

ニースで出逢い直せた画家、それは私にとってはなんといってもMatisse、アンリ・マティス。
長らく愛していたのは、彼のデッサンだった。ゆったりとしているのに、正しさを強く感じさせる、線と線の間の余白の取り方。
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Henri Matisse 《Tête de femme》, 1951.

切り絵の類は正直、そんなに気に入っているわけではなくて。
あの色味の大胆さ!強さ!パキッ!とした感じが、ずっと苦手だった。元気すぎるものを観ると、なんだか疲れてしまって。
ニースに行くまでは。あの光のもとで作品に出逢い直すまでは。
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Henri Matisse 《Apollon》, 1953.

画家のアトリエを改装した、丘の上のマティス美術館。バスでゆらゆらと登っていく。
窓から入ってくる光、風に揺れるカーテン、画中にもよく出てくるマティス愛用の肘掛け椅子。彼が生活していた空間が、当時のままに残されている。
そこで観た切り絵は、南仏のまばゆい光に負けないくらいの彩度で収まっていて。
la gerbe
Henri Matisse 《La gerbe》,1953.

作品を前にした瞬間、絵を理解すると同時に、画家がニースに魅せられた理由も分かった気がした。
なるほど、そうだったのか。
これだけハツラツとした色の溢れる土地で描かれたから、作品もこんなに明るくなったのか。
いやむしろ、この街で描かれるものたちは、これくらいの強度をもたないと、太陽の眩しさに霞んでしまうのかもしれない。
鮮烈な色とまばゆい光を最大限に凝縮する試みの行き着いた先が、「切り絵」だったのかもしれない。

あの街では、空が、海が、すべての自然が、全力の色彩を持って、圧倒的な光とともに、身体の中に流れ込んでくるから。
まっすぐで温かい光の中で、本質が私に笑いかける。

実際のところ、マティスは年をとるにつれ身体が不自由になって、絵筆の代わりに鋏を使うようになった云々、なんてことだけでは説明のつかない話だったのだ。
旅をすることで、画家の第二の人生に出会えた。

普段と違う土地に行って分かったのは、作品の性質には、きちんと理由があるということだった。
その土地の気候に合った郷土料理や地酒があるように、創作物にも、土地性というのが深く関係しているのだ。その土地の空気の強弱に、見合う作品がある。

「三分間のこの曲が
最先端の君の感性を
三分間で錆つかせる」
と歌ったのはゆらゆら帝国で(夜行性の生き物3匹)、
旅とは、いとも簡単に錆つく危険にされされている感性を死守する為の、手段の一環なのかもしれない。
自分の感受性くらい、自分で守らなければならないのだ。
(こんなに安易に茨木のり子を引用したら怒られちゃいそうだな…)

私は7歳からフランスに住んでいて、中学に上がってからは毎年、日本に一時帰国をするようになり、それもひとつの旅だった。
たっぷり2ヶ月ある夏休み。神戸と福岡、それぞれの祖父母宅で過ごした。
ストラスブールからは小鳥のような旅客機で空を飛び、パリでair franceの巨大な機体に乗り換えて、12時間ほどで日本につく。
お土産をたっぷり詰め込んだスーツケースを、家族3人、がらがらと引いて。

そんな風に暮らしてきたから、10代半ばには「移動」そのものは日常になっていて。
今でも、移動距離や滞在時間そのものに「旅」を感じることは少ない。
旅を旅たらしめるものとは、おそらく細胞が更新されていく感覚なのだと思う。
物理的な移動ではなくて、精神的なトリップ。
ルドンの気球に乗って、ここではないどこかへ。
インターネットも仕事も恋も手出しできない場所へ。
意識的に、世界から自分を疎外していく時間。

旅の本質とは、誰にも行けないところに行くことではないのか。
埋没する瀬戸際で、誰にも、手の届かないところに、自分をまるっと掬い上げて。

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Odilon Redon「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」1882
(目玉はルドンにとって意識の象徴、イメージの源泉。現実ではなく、心の深淵を覗き込む姿勢。)

パリ左岸にある Musée Quai Branly(ケ・ブランリー美術館)は、まさに精神トリップにうってつけの場所で。
オセアニアやアフリカ、アメリカ、アジアのプリミティブアート(原始美術)の殿堂であるこの美術館には、大量のマスクや彫刻、タトゥーの標本などが展示してある。
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顔の部分だけで1mほどもある巨大な精霊の椅子。
奇妙な、あるいは艶かしい、あるいは不気味な、あるいはひょうきんな、仮面のコレクション。呪いの人形、船のように長いワニの彫刻。
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それらは、表現の多様性、造形の自由、人間の想像力の無限性を、ずいずいと提示してくる。
思考的にも行き詰まっている時に見ると、身体中の停滞を一掃してしまうような解放感が自分を突き抜ける。
モネやセザンヌや横山大観や加山又造やリ・ウーファンや、そうした「見知ってしまっている」ものたちではなく、「別の惑星から来た」くらいの勢いで未知!なものたちに囲まれる空間。
神とも精霊ともつかぬ、しかし確かに周りに満ちている、見知らぬものたちは、奇妙な親しみを持って、私に語りかけてくる。
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人為的な境界を軽々と越えていく。
本来、不可視なものたちが、具現化されていった結果、表出のカタチの多様性。

そうしたものたちに囲まれると、「人」という枠から解き放たれて、天地と交信し、魂は軽くなり、奇跡をも信じられるようになる。
この視えるものに溢れた世界にも、きちんと希望を持って、戻ってこられる気がするのだ。
この生をまっとうする為の、希望を。

Leiko Dairokuno

Leiko Dairokuno

フランス・アルザス育ちの、和装好き.通訳・翻訳・字幕監修、美術展づくり.好きな色はパープルと翡翠色、パリのブルーグレーの空と、オスマン調のアイボリー.Aichi Triennale 2019/ Tokyo Art Beat/ Dries Van Noten/ Sciences Po. Paris/ Ecole du Louvre.
ご依頼はleiko.dairokuno(@)gmail.comへどうぞ.

Reviewed by
kanako_mizojiri


Leikoさんによるエッセイ 4回目のテーマは"フランスと旅~voyage. "
昔から人々が抱いてきた、見知らぬ土地への憧憬。18世紀のフランス人探検家が旅した南太平洋の国々、ゴーギャンにとってのタヒチ、ヨーロッパの内外から多くの芸術家が集ったフランス。片岡球子が70代になってから渡ったヨーロッパ。見知らぬ土地での経験は時に、人生が、画家にとっては画風が変わるほどの出逢いとなる。

旅の醍醐味のひとつとして、絵や音楽が生まれたその場所で出逢い直すということ。Leikoさんにとっては、南仏の光のもとで出逢い直したマティスの切り絵。
眩しい陽射しや、太陽に照らされた海の碧さ、豊かに祝福された大地に輝く色彩は、今も昔も人々を惹きつけて止まない。それが芸術家なら、尚更。 (私自身、曇り空の多いイギリス留学を経てスペインやイタリアなどを旅した時は、光に溢れた毎日が愛しくてたまらず日々何十枚とスケッチを描きためた。)

さらにLeikoさんの言う旅は、実際の距離的旅行に収まらず。パリのケ・ブランリー美術館では、いわゆる原始美術の見知らぬ造形物に囲まれて、精神的なトリップを。


今回はいつもに増して生き生きとした文章で、新たな旅へと誘われるような素敵なエッセイです。

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