Automne:秋。
木々の葉や果物など、様々なものが色づく季節。
山種美術館で開催中の「琳派400年記念 琳派と秋の秋の彩り」展。
季感を大切にしたこの展示には、秋の色が溢れている。
福田平八郎のデザイン感覚は、レオ・レオニの絵本に通じるものがある。
都会的で大胆で、色彩豊かなのに過剰さがなくて、とても優しい。
秋の色は、賑やかなのに浮ついていないのが、いい。
みな熟していて、「にわか」ではないのだ。
春の持つ生まれたての無垢さと違い、もっと酸いも甘いも噛み分けてきたような、大人の色。
だからこそ、信用できる。
夏の湿気から逃れた、からりとした心地好さもあいまって、秋の色は深い上に潔い。
自分が秋生まれであることと、なにか関係があるのだろうか。
律儀に深まっていく秋に安心する。冬に向けて、静かに艶やかに準備が進む。
街灯がつくのが早くなるにつれ、気持ちが鎮まり研ぎすまされて、眠りも穏やかになっていく。
秋の落ち葉は、なんて優秀なのだろう。
苔にも、砂利にも、土にも、酷く似合うのだ。
枝から離れて地に落ちてもなお、世界の色彩を引き立てる。
パリの秋夜。
19時過ぎ、Ecole du Louvre(ルーブル学院)を出ると、
視界に飛び込んでくるのは暗闇を照らす白銀満月だった。
ライトアップされたルーブル沿いには、暖色の街灯。
いつ見てもドキッとする、整然とした冷たさ、静けさ。
からりとした秋の空気は、キリリと冷えた白ワインのよう。
それは氷のような美しさをたたえていて、独りで対峙するにはあまりに心細い風景だった。
心がねじきれそうな切なさを抱えながら、それでもここで生きていくんだ、という気概を持って歩いた道。
思い出す度、帰りたくてたまらなくなる。
お洒落心は年中無休だと思うのだけれど、
その中でも、秋のお洒落は格別だ。
8月も終わりに差し掛かると、街には爽やかな感覚を盛った秋の服が並び始める。
秋は束の間の季節だから、うかうかしていたら逃してしまう。
巻き上がって去ってゆく秋。瞬く間に冬だ。
狐につままれたように巡り巡る季節に振り回されつつ、
この上ない真剣さで程よい軽さとしっとり感を持つニットを探す。
パリコレも、やっぱりAutumn/Winterが一番好きだ。
ベルギーのデザイナー、Dries Van Notenのショールームで働いていたときも、
自分が世界中のバイヤーさん方に卸していたのは秋冬もので、
何百点もある商品を前に、一つ一つに袖を通す夢想をしていた。
その年のドリスのショーは、かつてヴェルサイユ宮殿で開かれた舞踏会さながら、
華やかさと品の良さを兼ねそろえた夢の時間だった。
シャンデリアの下、暗闇に浮かび上がるはシルクのドレス。
各ニットに与えられた名前がキュートで、忘れられない。
『ミネラル』『ミルク』『マカデミア』 ...総てMから始まるふわふわシリーズ。
秋の果物には、まるっとしたものが多い気がする。
葡萄の丸みは、それを摘まんだり剥いたりするであろう細くてしなやかな指や、一粒ずつ気怠そうに食べていく艶やかな唇を連想させるので、危険。
そう、例えば、藤島武二の描く女の唇にこそ、ぴったりだわ。
藤島武二「匂い」1915年。
私が育ったアルザス地方ではミラベルという果物が名産で、初秋の数週間だけ店頭に並ぶ。
プラムの一種で、果肉は黄色く透き通っている。
苺くらいの大きさで甘酸っぱくて、キュンとする爽やかさがある。
生で食べても美味しいし、食べきれなければタルトにしても楽しい。
ストラスブールから車で一時間半ほどの場所に、美味しい実の生るミラベルの木があって、
秋になると、ドライブがてら摘みに出かけた。
カゴに実をぽいぽい放り込みながら、途中でつまみ食いするのは、愉快。
誰よりも早く、大地の祝福を直接いただく喜びで、ちょっと特別な気分になる。
口の中で弾ける秋の味だ。
秋が深まると街のあちらこちらで Marron chaud(マロンショー、焼き栗)の屋台が出始める。
マロン達は、三角錐のぺらぺらした茶色い紙袋に入っている。
不要に気取らない目の粗い紙が、マロンへの親しみ、気の置けなさを助長する。
熱々のうちに、早くお食べよ。
マロンショーを食べる際の心得として、
お客が並んでいないところで買ってはいけない。
長い時間ストーブの中でくすぶっていた栗達は、焦げて固くて、美味しくないのだ。殺されてしまった栗達。
だから、できるだけ、回転の良い焼き栗屋を探す。
ほくほくとした、素朴に甘い栗をほおばる為に。
澄んだ秋の夜空に広がるのは、アンドロメダ座とペルセウス座.
ペルセウスは、前回のコラム「フランスと雨〜pluie」の冒頭に登場した、ゼウスとダナエの息子.
彼は自分が、祖父を殺める運命にあると知り、旅に出ることで少しでも遠くへ行き、悲劇を回避しようとする。
物語の中でも注目シーンは、やはり、絶世の美女アンドロメダ姫救出のシーン。
アンドロメダは、海の神ポセイドンの妻の怒りを買った母親のせいで、海獣でのささげものとして大岩に拘束されていた。いつ海獣に食べられてもおかしくない状況。
ペルセウスは、それまでの旅で培った技量や魔法アイテムで見事海獣を倒し、アンドロメダを救出する。(勿論その後、妻として迎える。)
絶世の美女&理想のヒーロー。この画題は当然というべきか、大いに盛り上がり、西洋の画家が好んで描くところとなった。ルーベンス、モロー、ルドン。
Rubens《Persée et Andromède》, 1622-23.
ルーベンスのアンドロメダは、頬を赤らめ、可憐に俯く。
Odilon Redon《Andromède》, 1912.
ルドンのアンドロメダは、花の精霊に祝福された乙女の様相を呈している。
こうした英雄的陶酔感たっぷりのテーマは、随分と雄々しい男性目線を感じるところもあるけれど(物語がそれでうまくいくのであれば、それはそれでよいのだ)、
女の子サイドの「いつか王子様が」願望も永遠のテーマだ。いつか私を救ってくれるヒーロー。
現代の「いつか王子様が」願望は、かつてのギリシャ神話や白雪姫的のストーリーで描かれるような素直さ・ストレートさからは随分遠くへ来たようだ。
フランスの歌手二人組Brigitteの曲《Battez-vous》.
《Faites-vous la guerre pour me faire la cour》
《Mettez-vous à genoux》
「私に愛を囁く為に、男はみんな闘いなさい」
びっくりするほどの上から女王様気分で始まる歌。
「ねぇ貴方。私にかしづいて」
私みたいな良い女を口説きたいなら、とりあえず男の中でNo.1になってからおいでなさい、という感じ。姐御だ。
けれども、きちんと聴いていると、
「貴方の腕の中で、その心地好い声に包まれたいの」
「暗がりの中で、私はこんなにも心細いの」
「私の食えないスーパースター!」
と続くではないか。
言い換えれば、「本当は意中の人に、周りの男を蹴散らすくらいの気概で愛してほしいと思っているし、貴方にしか言い寄られたくないのよ。だからさっさと一番になって、堂々と私を浚いにきてよ!大好きなんだから、待っているのよ。早くキスしてよ、じれったいわね!」
という全力のツンデレ曲なのだった。めんどくさくって、ひねくれていて、可愛いなぁ。
それでも、そうやって相手の男性に心くだけるだけの余裕(ないし盲目さ)がないと、恋は叶わない。
いったん足を踏み外したら最後、恋の救済のなさに途方に暮れる日々が待っているというのに。
自ら胸焼けこげるような日々に身を投じようという果敢さが、女には備わっている。
乙女心と秋の空。
どこか狂っていないと、恋なんてできるわけがない。