仕事から帰ると、あきはベッドの上から窓の外に浮かぶ満月を見ていた。
部屋に入ると、あきは振り向きもせず
「また行ってきたの?別にかまわないのだけれど、その匂いはもうここにはいらないのよ」
とおかえりよりも先に言い、白いワンピース姿で、開いた窓の縁に両肘を乗せ、まだ満月を見ていた。師走の冷たい風が窓から流れ込んでくる。付き合ってから二回目の冬だ。
たぶん一生のうち行くことはないだろうと思っていたキャバクラに、会社の上司にはじめて連れて行かれた日、あきはそれを特にとがめたりはしなかった。
「ただいま。ごめん付き合いだからさ、でも次からは断ることにするよ」
隣に座りそう言うと、あきは満月から目を逸らし、僕の背中に両腕をまわした。
そして小声で「レモネード」と言った。
煮詰めた甘酒に、砂糖とはちみつで漬けておいたカットレモンを数枚入れる。最後に乾燥させたローズマリーを添えたものが我が家のレモネードとなっている。
「これを飲み終えたら海にいきましょ。夜の海」
嬉しそうにあきは言った。レモネードを飲んでいるときの彼女はとても幸せそうだった。
お互いコートに袖を通し、しっかりと着込んだ。あきは冬でも黒い鼻緒のせったを履く。それがあきの色白で細長い体にとても似合っていた。
車も人もいない一本道を、二人で真ん中を歩いた。両脇に並ぶ街灯はきれいな照明になり、あきはその下で飛んだり跳ねたり回ったりしながら進んでいた。たまにせったが足から飛んで行ってしまっては、僕がそれを取りに行って渡し、を繰り返していた。
太陽が苦手だと言う彼女は昼間ほとんど外出することはない。
「ねえ、みてみて。息がこんなに白く見えるわ。私はちゃんと息をしている、ってしっかりと見えるのよ。あーほんとに生きてるのねって思えるわ」
と、鼻を真っ赤にさせながら近寄ってあきは言った。
「あきさん、少し変わってる人ね」と両親に含みを込めて言われたのは、付き合って一年が経ち、初めてあきを紹介したときだった。何も知らないで、何をわかったようなことを言うんだとひどく腹が立った。あきを否定されることは自分を否定されること以上に許せなかった。そもそも変わってない人とはどんな人なんだ。教えてくれ、と思った。
それからは友人にも誰にもあきを紹介しなくなった。
道の端に白い花が見えると、あきは急いでかけより、しゃがみこんでじっと花を見ていた。
僕に大きく手招きをし、かけよるとそれはスイセンの花だった。冬に咲くきれいな白い花。
「花って儚いわ。自らすきな人の元へいけないのだもの。生えてしまったその場所がもうすべての答えになってしまう」
まるで私たちみたいね、なんてあきは妙なことを言った。
「でもね、冬にこんなにも簡単に馴染んでしまうスイセンの花に嫉妬してしまうこともあるわ」
と微笑みながら言い、また街灯の下を白鳥のように羽ばたき、飛び跳ねて行った。
海についたとき、あきの姿は腰のあたりまで海に浸かり、そのまま躊躇なく闊歩していた。
僕は狼狽する暇もなく、全力で走り、あきの名前を叫びながら、冷たい海を泳いだ。
泳いでも泳いでも追いつかず、冷たさで体が硬直し始め、前に進むどころではなくなっていた。気持ちに反して手足の感覚はもうほとんどなくなっていた。先を見ると、あきはすでに首元まで沈んでいた。
見上げると、きれいな満月が悠長にこちらを見ていた。
頭の中で、今まであきが発した言葉の断片がやりとりされる。
「私、生きているものより死者に惹かれることがあるの。生きている人が死者にどこまで近づけるのか知ってみたいわ」
「ふゆって名前じゃなくてよかったわ。そんな名前私には重くて埋もれてしまう。あきだってふゆに近い分、苦しくなるときもあるのに。でも限りなくふゆにとけてみたいと思うの」
「白いものとレモネード、それと満月がすき」
いやでも思い出してしまう記憶。
ふと、満月の光に陰がさした。
仰向けで浮いている僕を覗き込んで、大号泣しているあきの顔があった。
「あなた何してるの!死んでしまうわよ!」
というあきの言葉をそのまま返してやりたかったが、がたがたとした口元を思うように動かせなかった。ただ、どうしてか、生きてずっとこの人の側にいようと思った。
あー早く家に帰って暖かいレモネードが飲みたい。
今日は疲れたから少しグラニュー糖をまぶそう。
甘酒ではなくワインにしてもいいな。
でもやっぱり、あきと同じものにするよ。
【おわり】
【 雨子の話 3 】
*本編の”冬のなかに埋もれる”とは関係のない雨子の話