お疲れ様です。
僧侶の鈴木秀彰(すずきひであき)です
今回で第6回目。
前回は、僧侶としての個人の活動を増やしていった僕が、今一度自分を見つめなおした結果、気づいた思考についてお話させていただきました。
気づいたことは「できない自分から逃げる」という行動パターン。
さらには、その逃げる行動パターンに従い、イベント中、「人前で恥をかきたくないという気持ち」からあまり自分を語っていない事実。
どこか僧侶は人を導かなくてはならない、まるで教師のように、しっかりしなくてはならないという気持ちがそれまで強かったこともその事実に影響を与えていました。
それこそ、自分の中にあった「僧侶、お寺の敷居の高さ」だったのです。
自分をさらけ出すことで誰にも受け入れられず、どこか恥をかくのではないか。
そもそも僕は仏教に関する知識への自信がない。
そのことが参加者との壁を作り、敷居の高さを作っていた現実を知ったのです。
今回は、今一度自分を見つけなおした僕が次にとった行動について、話を進めていきます。
それは自己受容でした。
「できるのも自分。できないのも自分。自分を許してやろう。認めてやろう」
という気持ちになりました。
そのような気持ちになれたのは、イベントを通していろいろな人とのご縁をいただき、自分を許せず自己肯定感の低い人が多いことに気づいたからでした。
僕が受ける一番多い悩み相談は「人間関係について」です。
その悩みの根底にあるのは、自分を許せないことで結果的に他人も許せないという気持ちがあるのではないでしょうか。
例えば、常に自己成長、努力して頑張らなければいけないと思っている方がいました。その方は、逆に他人が弱音を吐いてくる姿を見て、許せずどこかいつもイライラしてしまう、そんな気持ちを誰もわかってもらえないので疲れたという相談を受けました。
本当は弱音を吐きたいけど、それが逃げになるのでは、自分に負けてしまうことになるのではと思い、それができている他者を許せない、受け入れられない。
そこに悩みがうまれ、ますます本音を吐けず、そんな自分を嫌いになっていく。
しかし、そんな相談を受けている僕自身はどうだろう?
当時は自分を受け入れられず、逃げている自分がありました。
そこで、まず自分自身が自分を許していこうと思ったところ、ある気持ちが僕には湧き上がってきました。
それは「もっと自分を知りたいという気持ち」でした。
今まで逃げていたので、自分と向き合っていませんでした。
自分では知らない自分。それは他者が見ている自分。
多くのイベント開催により、他者から教えてもらえる自分があるということを知りました。
例えばある用語に対して、自分の中では知っているような感覚でいたのですが、イベントにて他者に質問を受けて初めて説明できない自分に出会います。
他者を通して、初めて知る自分という現実。
でもその現実に対して逃げることはなく、まず受け入れる。
できない自分がいるのだと。
もう逃げません。できない自分も自分。
それを受け入れて、次に動けばいいのです。
次回は行動に移して見えてきたもの、葛藤について、話を進めていきます。
合掌