お疲れ様です。
僧侶の鈴木秀彰(すずきひであき)です
今回で第7回目。
前回は、今一度自分を見つけなおした僕が次にとった行動について、お話させていただきました。
それは「自己受容」。
できない自分も自分なのだと受け入れるという行動でした。
受容すると、自分をもっと知りたいという気持ちが出てきました。
多くのイベントを開催していたご縁で、さまざまな人に出会い、他者から教えてくれる自分という存在に気づいたのです。
今回は、その次の行動をとった結果から起きた葛藤から、話を進めていきます。
人はなにかと悩みが多く、葛藤が多い生き物です。
それは普段、悩み相談を受けていて、率直に感じることです。
そんな僕も同じく、ふと悩むことがあります。
僕が僧侶であるからといって、悩みもなく
隙もなく、どこか完璧でなくてはならないのでしょうか。
そもそも僧侶も人間であるわけではと思うのです。
しかし、世間における僧侶像は評価が高い印象を受けます。
「信念が強く、何事においてもぶれない」
ときには「このような存在であってほしい」という
願いとして耳に入ってくる場合もあります。
ちなみに僕は有髪の僧侶です。
初対面の方による第一声は
「あれ?僧侶さんなのに髪があっていいのですか」
だいたい疑問に思うようです。
でも僧侶はなぜ坊主頭なのでしょうか。
調べてみると欲がない状況、自分をどこか律するために
あの姿であるらしいのです。
つまり有髪であると、人からよく見られたいなどという
欲が出てくるのではと。
僕はここに、もしかしたら欲が出てしまうという
僧侶の恐れ、不安の現れを感じています。
そもそも欲って出てはいけないものなのでしょうか。
悩みと一緒で
僧侶だって人間ですから欲があります。
それを隠すこともなく、
律することもないのではと思うのです。
要は、その出てくる欲にまみれず、
先程のどこか一般の方とは違う存在、雰囲気、姿であれば
いいのではないでしょうか。
それにしても、これだけ見た目から、髪型から、人によっては
その姿、身なりからイメージのある職業があるのでしょうか。
次回はそんな僕が今、描いている未来について、話を進めていきます。
合掌