出発まで少しの間があって、実家に戻ってきた。父と母と夫と、家族の時間を過ごしている。東京にある実家には、結婚して以来、夫と一緒に夕飯を食べに来るくらいしか家に寄ることがなくなっていた。ようやく今、ゲストともてなす人ではなく、わたしたち4人が新しい家族の形を得て溶け合いなおしていっているような感覚がある。
「お祭りやっているぞ!」と父が教えてくれた。
神輿のかけ声に誘われるままに、かつて暮らした町を歩いた。鳥居をくぐって中に入っていく大勢の人たちを目にした途端、ぶわりと心が溢れてしまった。
あまりにも長いこと忘れていた風景が急に目の前に現れると、記憶の彼方のその光景を探し出す為に、その間にある記憶を投げ出す必要があるのかもしれない。全部一回バケツをひっくり返すみたいに。それが溢れての涙?
境内を上りながらまだ涙は止まらなくて、それを拭うのも辞めてしまった。「どうしていままで忘れていたんだろう」という驚きがじわじわと追いついてくる。
夜を照らす祭りの独特な雰囲気。神楽。辺りにまき散らされるお囃子の音。
屋台の間を練り歩く人々の顔が提灯でほんのりと照らされている。その下に、暗がりに座り込んでいる大人たちや駆け回る子供たちの層がある。その妖艶さにしめつけられるような懐かしさを覚える。
人の中身も層になっていると思った。時間が地層のように積み重なって、表面の日常にないことは普段自分の中では静かにしているのに、たまに何かをきっかけに隆起する。今みたいに。
境内に続く階段を上って振り返ると神社は小さかった頃よりも大きく見えた。
「ふつうは同じ場所にくると子供のころより小さく感じるのにね」
夫が言って、私は可笑しくなって白状した。
「中学生のころは境内まで上がってこなかった。下の屋台の周りを何を食べようか考えながら何周もして、その間中、小学校のころ好きだった子が来ていてばったり会えないかなって、薄暗い中で目を凝らして歩くだけで忙しかったのよ。あの頃は虫の目しか持ってなかった。今は鳥の目もある」
「なるほどね」と夫は笑う。「お祭りと言えば、中学生のデートだよなあ。好きな女の子が浴衣着ているのを見てどきどきしたもんな」
私たちは異なる地層をもつ、ふたりの人間だ。彼の地層の下の方がどんな記憶で作られているのか。里帰りをしたり、思い出話を聞いたりして知っているのは、そのごく一部でしかない。それは相手も同じ。
一周だけして、私たちは祭りを出た。好きだった人がどこかで大人になっているのか、私は知らない。この町にいるかもしれないし、出ていったかもしれない。探そうとは思わなかったけれど、にぎわいの中には、何年か先に乳母車を押している彼の姿が含まれている気がした。それをばったり見つける私も小さな手を引いているかもしれない。お囃子や神楽の音が掻き立てるのは現実と夢の間にある、実在しそうで、しない光景だ。
夜道を随分と遠回りしながら歩いて帰った。小さな坂道を登り、町を眺める。思い出の光景と、目の前の光景を薄いフィルムを合わせるように重ねてみる。物事の輪郭はぴたりとは重ならない。はみ出した部分が、私の生きてきた時間だ。
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それから数日が経った夜、私たちは沢山の荷物をタクシーに積み込んで出発した。真夜中の高速道路に入った途端、車がスピードをあげて、ぶわりと体が浮いた。ああ、また別の滑走路に移ったんだ。私たちは、どこへ飛んでいって、何になるんだろうね。
次にこの町に戻ってくることがあるとすれば、また更に私は、記憶からはみ出しているのだろう。 願わくばそのはみ出した部分に、いくつかの物語がありますように。