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2F/当番ノート

いま、一番遠い旅にでよう

当番ノート 第30期

一人でならいくらでも遠くに行ける気がしていた。

何時間もの時差が隔てる知らない国の道をひとり歩いてきたけれど
でもそれは本当に、遠かったのでしょうか。

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ひとり旅は邪魔されないところがいい。
気を遣わなくていい。好きな時に立ち止まることもできるし、今夜発つのだと決めることだって自由。
その時に感じることこそ本心であり本質的なんだと、漠然とそう信じてきた。

そんな調子だったので、ひとり旅が欠かすことのできない儀式になった私は定期的に国内外赴くことになる。
なかでも、1ヵ月かけてユースホステルを渡り歩きながら陸路と航路でデンマーク・スウェーデン・フィンランドを旅行した時のことは記憶に鮮やか。

旅先で誰かと出会うことが好きだけど、言葉も十分に通じないままその場で仲良くなれたと思い込んでしまい、余計に淋しい思いをしたことがあったから。
デンマークで友だちになれたと思っていた女の子と気持ちがすれ違ったままスウェーデンに出発しなくちゃいけなかった時、
移動の電車のなかでひどく孤独を感じて大泣きしたんだ。

“今「ほんとうに」世界にひとりぼっちだ!”

ひとりになりたくて一人で来たはずなのにちゃんちゃら可笑しいことは分かっていたけど
淋しくて、情けなくて、泣けて仕方なかった。

不気味がる車掌さん、気にかけてくれるはずもない乗客。
泣き終えるきっかけもないまま目的地に着くころには泣き枯れて、諦めの気持ちで宿に向かってすたすた歩いた。
散々人前で泣いたからか、頭もお腹もからっぽだった。
独りきりだとしてもしっかりやろうね、とユースのキッチンで持参したお味噌汁を飲んで眠った。

友だちって作るの難しいけど焦って適当にコミュニケーションとっても上手くいかないな、とか親友のあの子は元気にしているのかな、など大切に思う人が湧き出てきて、次の日からはそんなことをノートにびっしり書いて過ごした。
一人きりでいながら、ひとりにちゃんとなるのは意外と難しくて、それはそんな風に大切に思う人を馴染みのない土地で思い浮かべることができるからだと知った旅だった。

ishigaki

大学生の最後の夏、石垣島をひとりで訪れたこともあった。
ヨーロッパぐるっとバスツアーに参加したときに知り合ったお姉さんがホテルで働いているというので寮に泊めてもらいながら観光した。お姉さんの職場の同年代の子たちに混ぜてもらって一緒にご飯を作って食べて、夜通し泡盛をみんなで飲んで、一緒に夏祭りにも。
夕日の綺麗な岬に車で連れて行ってもらって、その辺に住んでいると噂の「化け犬」(とてつもなく大きいらしい)について怖いねと言い合ったり、夜光虫を見に川平湾に降りたりして遊んだ。

初対面の子たちがほとんどだったのに、ひと夏を従姉妹たちと過ごしているように懐かしくて、なんだか浦島太郎になって戻ってきて再会したようなチグハグさが時どき胸をきゅうっとさせた。竜宮城での生活のごとく、本当は帰る場所があることを忘れそうになって少し慌てたんだった。

その時に「楽園にも日常があるんだなぁ」、と感じたことが鮮烈な印象に残っている。
きっと当たり前のことなんだろう。だけど、その感想は私自身にとって意外なものではっとした。
島から帰ってきた後に中央線に揺られながら目にしたいつもの夕日を、楽園として感じることだって、それなら可能なはずだなぁ なんて思い直したりしたんだ。

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だから日常には倦むもので、非日常には楽園を求めてしまうようなイメージでは今はもう全然遠くに行ける気がしない。

普段判断することをなんとなく躊躇っている事柄をはっきりさせたい、と救われたい気持ちで旅にでたこともあったけど、思うような収穫がなくて結局半泣きで日常に帰ってきただけだった。
飛行機に乗って異国に降り立つだけで解決するなら、きっとその問題は難問じゃないんだろう。
ただただ決断することを怠けているだけ、
傷つけあったり謝ったりすることを後回しにしているだけ。

私はせっかく旅に出るなら、遠くに行きたい。

旅に出る時はなるべく平らな気持ちでいるぶんだけ、出会うものに対して心を開いた状態で向かい合うだけ
旅で見つけた宝物を、日常に持ち帰ることができるんだろう。

ひとり旅では、心の糸がぴんと張りつめるからなのかな、普段は思いつかないようなものと自分との共通点に気付くことがある。
そういう新しい視点を得た時、不思議の国のアリスが落ちた世界のように日常が歪んで、とたん生気を帯びる。
それはまるで、見知った人たちとパラレルワールドで新しく出会い直すみたいに。

日常に生きるのが私たちなら、毎日に倦みそうになりながら楽園をここに見つけだしたいな。
そのためのヒントを私はひとり旅から持ち帰って、毎日の営みを通して「分かちあいたい」。
自分だけの特別な瞬間を求めてひとり旅にでてきたけど、そこで感じたことは自分の人生のある場所に帰って身近な人たちにシェアせずにいられないほどの鮮やかな体験ばかりだから。

目から鱗が落ちるような言葉やアイディアに旅で出会えるとしたら、それはやっぱり旅から日常への復路でのことなのでしょう。

一番遠い場所に旅して辿り着くのが今いる場所なのだとしたら、なぜわざわざ旅にでるの?

ただただ靴底を減らしてジーンズの膝に穴を開けたかったからかもしれない。
遠くを目指してひとりで歩くのは、気持ちがいいから。
開けっ放しの心をもって、知らない人に出会うのは楽しいから。

はじめて見るように見ること、はじめて触れるように触れることを旅から離れた今日もできたらいいね。

遠い旅にでよう。
それは平日でも週末でも、きっと構わないよ。

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松渕さいこ

松渕さいこ

interiors 店主 / 編集・企画 東京在住
お年玉で水色のテーブルを買うような幼少期を過ごし、そのまま大人になりました。2019年よりヴィンテージを扱うショップの店主。アパートメントでは旅や出会った人たちとの記憶を起点に思考し、記します。「インテリア(内面)」が永遠のテーマ。

Reviewed by
ひだま こーし

【さいこうさぎ版『青い鳥』】

軽やかであることの重み。
言葉を逃れるということの、
行動する、行為になるということの、
その軽みの、その重さ。

読後一番、そんなことをまず思い浮かべた
今回の松渕さんのコラム。
テーマは旅だ。ぼくも旅は好きな方だ。

何年も前のことだけど、
インドを一人で旅行したことがある。
その中で日本人にも多く出会ったけど、
一人旅をしているのは圧倒的に若い女性が多かった。
若い男は大体みんな3,4人でつるんでいた。
そういうのを見ながら、
やっぱり女性の方が逞しいのだなあ
と再確認した。
松渕さんも一人旅が常のようだ。
逞しい。
なんて書くと語弊があるかもしれないけど、
逞しく生きるためには繊細さが必要
なのは野生動物を見ればわかることだ。
逞しくて繊細。
言葉にするから矛盾して見えるだけで、
ことの内実をしっかり眺めれば
両極はメビウスの輪のように
繋がっているのがわかるはずだ。
野性には必ずエレガンスが含まれているものだ。


一遍はどうして遊行という道を選んだのだろう。
芭蕉はなぜ旅という徘徊を俳諧の方法としたのだろう。
これを読みながらそんな疑問も頭をよぎった。
が、答えはわかりきっている。
言葉という硬直から生を一旦解放させるためだ。
そしてその先にある生の結晶のような言葉としての
称名や俳句にたどり着くためだ。
言葉にたどり着くために言葉を捨てる。
何かを得るためにそのこと自体を一旦捨てる。
「ここ」にたどり着くために
「ここ」を一旦捨てるのが旅というものなのだろう。
そしてこんなことを考えて言葉にしている暇があるなら、
さっさと旅に出た方がよっぽど、
この言葉自体に叶っていることなのだ。


旅先で、
矛盾の両端を行ったり来たりするような
イニシエーションの数々をくぐり抜けて、
あるとき松渕さんは
ぴょんと両耳を立ててさいこうさぎになる。
好きなものを正統に突き詰めては
気がつくと異端になってしまっている、
というようなことをぐるぐるやっているうちに、
(ちなみにこういうことは真面目な人にしかできない)
そしてそのうち、
ちびくろさんぼの虎たちがバターになった時のような、
たぶんそんな境地に達したときに
さいこうさぎさんは現れる。
それが神話に出てくる英雄の復活譚とは違う
なんて誰が言えるだろう。
そして復活譚には新しい知恵や宝物がつきものだ。
松渕さんの言葉にキラキラするものを感じるのは、
そういうことが理由なのかもしれない。


さて、旅の準備をしよう。

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