じぶんの言葉が、本当はだれの言葉であるか、考えることがある。
私が普段話すこの言葉は、私が今まで出会った言葉や気に入った言葉の写し鏡であり残響。
そしてそれは、私の好みによって拾いあげられるためにとても偏っている。
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じぶんが生きている言葉に偏りがある、というのはじぶんの人生の捉え方にも偏りがあるのだと思う。
私の場合は圧倒的に江國香織の影響下にいる。
女を理解することに苦戦していた小学生の頃から、女の人とはどれだけ強く生まれついているかを江國香織は教えてくれた。矛盾を公に抱えながらもしなやかで、伸るか反るかの場面でも決してぽっきりと折れないのが江國の女たち。彼女たちを見習って強く生きようって思ってきた。
女子高育ちの江國が描く女の子たちの心情は真実そのもので、彼女たちを知ることは教科書以上のものとして生活に役立った。女同士の友情の恋にも匹敵する熱さと無関心を読んで感じては世界で二人だけだと思うような愛情を育てることも、残酷なまでの仕打ちも理解できた。理解できると怖くなくなるものだから、不思議。
思春期を生き残るのに必要不可欠な言葉を、その物語を誦じるまで吸収してきたからなんでしょう
大切な岐路に立ったときに口にした私の言葉と江國香織の言葉の区別がつかなくなってしまったので、これは困ったことになったと立ち止まったある日のこと。
このままじゃ、私が小説になってしまう なんて真面目に心配したりして。
気が付けばもう私は江國香織の言葉が一番必要な時期をいつの間にか越えてしまったのに、ほかの言葉を更新し忘れてしまっていた。
今までだったら江國香織の言葉のなかに自分らしさを見つけられていたけど、どうやら最近は別の私も存在するらしい。
そもそも生きる言葉がひとつだけだったら、とっても窮屈。
私らしさ分の言葉を生きられたら、いいな。
言葉からはみ出した自分が路頭に迷わないためにも、自分の多面性に対応するだけの言葉が必要だと思う。
ことばに身体を押し込められるのではなく。
自分にアウトラインを与えてくれるような、母親のような言葉を大事にするのは心強いけれど、今度はその言葉の枠内でしか生きられなくなってしまう。いろんな価値観や風景を孕んだハイブリッド化された言葉を生きられたらきっと言葉に振り回されることなく、気持ちとズレることのない言葉を使えるかもしれない。
だけれど初めて触れる文体や、口調、漢字とひらがなのバランスに出会うとき、読みにくく感じてとても読み進められないと思うことだってある。初めて降り立つ駅のように未知で、どこへ向かえばいいのか不安に駆られる。慣れ親しんでいないものへの拒否感も伴ってそこに書かれている言葉たちが内側に沁み込んでくるのには時間が掛かる。
でもこういうことって、考え方が違うと感じる人と向き合う時に感じることとよく似ている。
違和感を感じるのは主張そのものではなくて言い方や例え方だったりするように、第一印象で跳ね除けてばかりもいられない、と最近は思う。言葉に頼りきってしまっては、簡単に通り過ぎてしまうその人を知る機会は再びない。
言葉をはじめとする頑なな一貫性に、どこか私は飽きてしまった。
人は変わるものだから。
自分を導いてくれた言葉や育った環境は大事にしていてもいい。でも、変わったってもちろんいい。
最近、読んだこともなかった海外文学を勧められるまま苦戦しながらでも読んでみようと思ったのは、今はまだ輪郭の危うい自分の感情に似たものがそのページにも見つけられるかもと思ったから。一読して見つかったかは分からないけど、水の流れていなかった思考回路に水が通った感じがした。その水跡が私のこれから出会う戸惑いに名前を付けてくれるのかもしれないので、知らない駅に降り立つこともたまにはしてみたいなと思う。
これはインテリアの好みの移り変わりも同じ。
一番最初フレンチカントリーだけが好きだった私が、今ではひとつひとつを素材としてミックスすることができる、いろんなジャンルのインテリア。目移りする過程でそれぞれの美しさ、野蛮さと洗練を知った私は、いろんな素材を縦断することで何十通りの「美しい」を表現できる。
前なら考えられなかったけれど、今なら。
経験や関係性のなかで、インテリアという言葉の意味や数を、広げてこれたからなんだろう。言葉のグラデーションの具合を知ることは、目に見えるものの表現を豊かにしてくれる。
その営みに、終わりなんてない。
なんの変哲もない好奇心が、その色の濃淡の狭間にわたしを誘いだす。
知らなかった言葉を飲み込めるとき、それはぼんやりした感情に名前が付いたとき。
じぶんの言葉の海から、過去よりもっと自由な物語を紡ぐんだ。