偶然をきっかけに、ぐんぐん進む人生が好きだと思う。
進む、といってもそれは前じゃないかもしれない。
私はあまりそれ自体を気にしていない。
「偶然」と出くわすことで勢いを得て今いる場所から踏み出せる、その瞬間がとても好きで
自分の人生を生かされている実感がふつふつと湧く、その体感の虜なのだ。
周りの人たちは
踏み出した結果として目も当てられない状態になる私を心配し、
いずれ復活する私を知ったのち、たくさん笑う。
私が偶然を信じる理由のひとつに、例えどの方向に飛び込んで骨を折ったとしても
いずれしっかりと過去になってしまって
また飛び込んでみようかなと思う自分の回復力と忘却力を知っているからだと思っている。
そう思うことは繊細な心の湖を内側に持てていないようですこし淋しい。
ただ少し乱暴でも進みたい人生を生き抜けないことはもっと悲しい。
思うに、自分が引き寄せられるものに正しいタイミングで気が付けるかどうかが
人生を じぶんのものたらしめる ためには必要なのだ。
偶然に出会った人やものから自分宛てのメッセージを読み取ろうと思ってしまうのは私のクセで、
そうすると日々は冒険めくので胸が高鳴る。
*
不思議な偶然はたまに、ひょうひょうと現れる。
友だちに触発されてとうとうフィルムカメラを買おうと決め、
銀座の古い教会ビルにある中古カメラ屋さんに行った7月の話。
カメラを自分で選べるほどの知識がない私は
素直に店員さんに聞いてみたのだけど
聞き方が明らかな素人だったからかあまり積極的にお勧めしてもらえず、困ってしまった。
今日、買いたかったのになぁ。
するとその様子を傍で見ていたらしい、ひとりの外国人の男性が間髪入れず
「僕が教えてあげるよ」
と声を掛けてくれたのだ。
私は一瞬ひどく戸惑ったけど、彼はそんな様子を気に留めることなく
「取りあえずフィルムカメラを始めてみたいなら、このあたりかな」
と流ちょうな日本語で穏やかに案内をしてくれた。
彼はライカの美しいカメラをぶら下げていて、優しく迷いがなかった。
私は彼が信頼できると感じて、彼が勧めてくれたものを「絶対」買おうと思った。
そうして、彼がレンズの曇りがないかなど状態を確認してくれたうえで
「大学生の時に使っていたカメラと同じだけど、これはいいと思うよ」
と選んでくれたNikonEMを本当に買って帰ったのだった。
彼は私が決めると「それじゃあ」と帰ってしまい
それきりだ。
*
実のところフィルムカメラへの憧れは、ずっと昔に交流のあったおじいさんまで遡る。
おじいさんは足が悪いにも関わらずいつもきちんとした和装で杖をついて近所のこどもたちや鳥や蝶々を好んで撮っていた。懐にはいつだって明治のキャラメルを忍ばせていて挨拶をするとキャラメルをくれたおじいさんの、物静かで優しい眼差しを覚えている。
たまにお家へ遊びに行くとプレゼントしてもらったポジフィルムを切り取って小さな紙製のマウントに入れたものは、明るい所にかざすと美しい鳥が浮かびあがる、私の宝物だった。
おじいさんはライカのカメラを愛用していた。
カメラという道具にいのちを持たせようとしているおじいさんの姿が
小さな私には魔法使いのように特別に思えたのだった。
その後わたしが引っ越したあとも、おじいさんとの交流は年賀状で10年以上続き
大学生になって再び上京してから再会した。
片手で数えられるくらいの回数、西武線を乗り継ぎおじいさんに会いに行った。
もうその頃にはベランダに止まる雀だけがおじいさんの被写体だったけれど
たくさんの雀の写真を見せてくれながら、私の話を静かに聞いてくれて
帰る時にはマンションの上からずっとずっと、見送ってくれた。
数年前からおじいさんの年賀状は届かなくなった。
病気だったらと心配したけど連絡も取れず
共通の知り合いもいなくて数年が経っていた。
先日わたしの働くインテリアショップで、
おじいさんと同じマンションに住むお客様を対応したのは、たまたまだった。
休憩に入ろうとしていたところ呼び止められ接客したのだ。
配送を承る過程で住所を見た時、「もしかして」と予感がした。
おじいさんのことを尋ねると、「よく知っていますよ」と返ってきたときはドキドキしたけど
その次の瞬間3年前に亡くなったことを聞いて、覚悟していたはずの悲しさに心がしわっとした。
でもそれ以上に
おじいさんを知る人に出会えたことを感謝した。
心から知りたいことはどんなに驚くようなルートを辿ってでも、知る運命にあるんだなと思う。
(だから、焦らなくて大丈夫。)
*
同じようにライカをぶら下げたふたりの男性との出会いと
今度はわたしがフィルムカメラ越しに世界を切り取りはじめたのは偶然でしょうか。
フィルムで写真を撮ると、見える視野は広がる一方で収めたい世界はきっかりと選別されていく。
それは「いいもの」を知ったうえで自分らしさを追うための基本姿勢に通じる。
私にとって今必要な視点に気付かせてくれるカメラとの接点は偶然にしては物語めいているので、
私はそっと大事にしている。
全部たまたまだよ、と思う人もいて当然。
だけど私にはどうしても人生のなかで触れるべきもの、感じるべきものへ近づくためのメッセージに見える。
これは、危なっかしい勘違いかもしれないね。
ドラマチックに生きたいと思うこと自体、きっとちょっぴり愚かしい。
それなのに、身体ごとドキドキすることに私は生かされているなと思う。
それから離れたら私の人生でいくつかの扉が閉ざされてしまうんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていた2016年も、あと5時間でおしまい。
魅力的な路地裏や坂道を誘われるように歩いてみることは、みんなもあるでしょう。
「その角を曲がったら」
面白いことに出会える気がしてわくわくしてしまうとき、曲がることで知れる感触を、想像力だけで知った気持ちになるのは惜しい。
感じられることが人生なのだとしたら。
愚かしくても構わない。
反れた先の人生はうんと遠回りの、目的地かも知れないよ。
新しい年も目の前に漂泊している偶然と船出することを躊躇わず
願わくはあなたも私も、よい旅を。