何らかの成り立ちについての考え方の1つとして、
「血」と「地」と「知」の「3つのチ」
という軸で考えると色々腑に落ちる事に気付いた。
きっかけは、ある時の即興演奏で、素の様な状態で無意識に旋律を紡いでいる時に、ペンタトニック(1オクターブがドレミソラなどの5つの音で形成される音階)の日本のわらべ歌っぽい旋律やアジアっぽい旋律での演奏に偏る事があって、録音をプレイバックしながら、はたしてこれはどういう事かと考え、他の時の即興演奏のテイクも並べて聞き直した時に、無意識であれ、それぞれ生み出されていた旋律に影響している要素があるとして、大きく「血の旋律」と「地の旋律」と「知の旋律」があって、それらが混じり合った結果としての音や旋律である様に思えたからだ。
あくまで、あるものの位置づけを考えてみたり、仮説でイメージを膨らませてみたり、主観的にあれやこれやと考える為の概念的な物差しのようなもので、厳密な科学的根拠なんかは当然度外視している。
「血の軸」
ヒトの生き物としての見地に基づく軸。自分自身だと日本人としてだったり、東洋人としてだったりを大本として無意識のレベルから滲み出て来る様々があるのだと思う。そしてやはり、海外の人々とは、フィジカルでもメンタルやマインドでも生き物としてのそれぞれの違いがある気がするし、厳密に遡るのが困難だとしても、自身の中の親や祖先から受け継いだものとか、血の混じり具合というものが作用している要素もきっとある気がする。
よく言われる例だと虫や鳥の鳴き声が音で聴こえるか言葉で聞こえるかの違いとかも、この軸に含まれる話で、歌心の拠り所もその人のルーツによってもきっと違うのだろうかと。
料理なんかの話だと、同じ料理を食べても味の捉え方は全然違ってくる様にも思うし、料理を作れば、味付けなんかにも違いが表れてくるものだと思う。旨味の概念が西洋世界だとシトシン酸が中心で、東洋だとグルタミン酸が中心だとか。
「地の軸」
自分の居場所が生み出すものとは何だろう?
僕が、関西で育ち、関東に住んでいる事で気付いたのは、それぞれの地の日射しの色が違う事だった。関東が黄色っぽいのに対して、関西は白っぽく感じる。日の出日の入りの時刻もだいたい15分位違うだけなのだけど、冬場なんかは関東の日没の感覚的な早さに驚いたりもする。何となく、「その日の終わり」がやってくるのが相対的に早く、冬場の14時を過ぎた頃からの「やる気の無さそうな日射し」は東京に来てから意識される様になった。
そんな風に、作り手の地理的な居場所や気象だったり環境だったりが、無意識にせよ意識的にせよ、作り出すものに何らかの影響を及ぼす事があると思う。
また、いわゆる伝統や古典の様なものも、その土地その土地で育まれるものであるとも思う。そういう意味では、地理的な側面と社会的な側面から生まれるものも、この軸に含まれるとも思う。
もっと小さな、その日その場所の話だと、天気とか、演奏会場の空気の影響は無意識レベルで存在するものだと考えている。世の中に本当に無音の場所は特殊な実験施設や録音の為の場所でもない限り滅多に存在しないもので、その場所自体の持つ「音」いうものが存在する。その日の風や周辺の交通による振動が建物全体を低く震わせていたり、建物内の空調等の設備などの発する音達が混じり合って、無意識下の存在でのその場所が発する通奏低音の様なノイズがあったりする。楽曲という縛りがない時に、不意に発した音の響きが心地よかったりそうでなかったりするのには、こんな事が影響しているのだとも思う。
「知の軸」
調べたりして得た、諸々の情報によって成り立つ様々、リサーチや知識として取り入れた諸々から成り立っている要素。自分にないものや、様々な意味で自分と距離があるものは、全て「知」のものとして取り入れられるのだと思う。
何らかについての3つの軸のバランスについて、実際的にはこの「知の軸」での拠り所が最も多くを占めるのだと思う。作り手自身から出ずる諸々よりも、客観的かつ論理的なものとして、知ったり教わったりしたもので多くが成り立っているのが、いわゆる「今日的なもの」「今日的な表現」なのだとも思う。
実際には、西洋音楽的なアプローチは子供の頃からの楽器の習い事や学校の授業を通して、結構しっかりと頭に叩き込まれてもいるし、自分が音楽を考える時にも多くの場合は西洋音楽的なアプローチや記述を用いて考える事になるので、特に具体的な作曲を行う行為はすべからく「知の軸」によるものになってしまっているのだと思う。
即興演奏でも、フレーズのアウトラインを設けたり、調性を保った演奏をする場合等は「ああ、知の旋律を紡いでいるな」と思っていたりもする。
情報化が急速に発達した今日に於いては、考えたり作ったりすることへの効率的な優位性からも、「知」の軸が何かにつけて幅を利かせているのが現実なのだと思う。
方や僕は、自ら考え作り出すものについて、「知」の軸で多くが成り立っていながらも、それでも滲み出て来る「血」と「地」の軸に正直な立ち位置で様々に臨んで行くのも1つの考えだと思っている。揺るがないベース、通奏低音の様な存在として、「血」と「地」の軸の強さがあるのではないかと。
だからという訳でもないけれど、音楽の節回し等からは「血」や「地」の軸の在り方に素直であろうものに惹かれたりする。
言い回しが堅いので砕いて言うならば、いわゆる「作り手自身の歌心に素直な」と言う事になるのだろうか。
料理だと、日本人が会得することで作られる各国料理なども、同じ様に当てはめられると思う。
彼の地の料理と日本に於ける各国料理とは、発祥国のものが本場云々以前に、食する人々の舌も違えば、それぞれの地で採れるもの、作れるものの違いの上に成り立ってもいるので、そもそも同じになることに無理があるのだと思う。日本人が「知」で触れた彼の地の料理を日本の「地」と日本人の「血」の条件でモデファイしたものが日本に於ける各国料理であるのかな?と。
こんな例から、ものごとの良し悪しや優劣よりも、偏りや特徴、特性の姿や在り方の理由が導き出しやすい軸なのかな?とも考えている。
そもそもは、ひとそれぞれの自身の在り様が「血」と「地」と「知」からのものなのだとも思う。
自身のルーツ、メンタルやマインドについての成り立ち、自分の居場所や自らを中心に見渡した世界、そして見聞きして知って来た様々、それらの総体が自分自身で、そのアウトプットとしての表現なのだと。
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お読みいただいてありがとうございます。
表現活動を通して自分なりに想っている様々を綴って来ましたが、どれ位伝わったのだろうか?
というのが正直な所。
自分の中でも、物書き的な事が最も縁遠い世界でもあったのですが、言葉として書き綴る事で、これまでについて振り返りつつ整理をつけて行けたという感がありました。
そんな、今回の連載の機会を作っていただいたアパートメントの皆様へ感謝を。
またいずれ。