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2F/当番ノート

当番ノート 第33期

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海が昔から好きだった。

僕が子どもの頃、週末の僕たちの遊び場は海だった。
両親が潮干狩りや魚釣りをしている間、僕たちは砂浜の奥に口を開けた、
恐らくは波の浸食によって出来上がった天然の洞穴を探索しながら、遊んでいた。
砂浜の砂利の中からシーグラスを見つけたり、打ち上げられたゴミの山の中からボールとバットを見つけて野球をしたり、
フナムシの大群を追い回したり(絶対にあいつらには追いつけない)、
堤防をよじ登って上で釣りをしている父親にちょっかいを出しに行ったり、水溜りの中で泳いでる稚魚を捕まえたり・・・
そうやってへたばってしまうまで遊んだ後、家に帰ってお風呂に入って、
晩御飯に潮干狩りでとったアサリを食べたいだけ食べた。
次の日の朝の味噌汁は決まってアサリの味噌汁になるというのが定番で、僕はその味噌汁が楽しみだった。
小さい頃そんな生活を送っていたせいなのか、飲み屋ではアサリの酒蒸しを探して頼んでしまう。

海は生と死の宝庫だ。
生まれたばかりの稚魚が足元を泳いでるかと思えば、
隣では打ち上げられた魚やクラゲの死骸やなんかが漂っている。
いつものように潮干狩りに出かけた時、ちょうど僕らの遊び場の洞穴に
イルカの死骸が打ち上げられていたことは今でもよく憶えている。
自分よりも明らかに大きな海の生き物の死骸の存在感と漂う腐臭。
そこにたむろするフナムシやカニ。
その頃、僕は死というものがどういうものかわかってはいなかったけれど、
その光景に僕は心を奪われた。その時僕の手元にもしカメラがあったのであれば
僕は確実にフィルムを何本も使ってその死骸を撮っていたのだろうと思う。
その光景が何かに結びついたわけではなかったけれど、
うすらぼんやりと、僕も死んだらああなってしまうのだろうかと、そう思った気がする。

僕は今でも実家に帰ると必ず真っ先に海に行く。
海の匂いを嗅ぎに行く。
海の匂いは、きっと別にこっちの海と何も変わらないのだろうけれど、
でも何となく、地元の海であの潮と腐臭の混じった海の匂いを嗅ぐと「帰ってきたんだな」と思えるのだ。
「海に行ってくる」と告げると、母親は決まって「あんたたちは親も子も揃って海んじょー行っちょるね」と言われる。
父親も潮見表をいつも見ていて、潮が良ければ仕事終わりや朝早くに釣り道具を持って釣りに出かけていた。
僕は東京に出てきてしまったから釣りはやらないけれど、
帰省した際に、妹がiPhoneのアプリで潮見表をチェックしていたのを見つけた時は笑ってしまった。
本当に揃いも揃って海バカである。

今年の夏はお盆の時期に実家に帰ることにしている。
お盆の時期なので釣りはできないけれど(お盆に殺生は悪かろう、とよく言っていた)、
僕の目的である写真であれば殺生ではないので、特に問題ないだろう。
あの海の匂いが嗅げると思うと、今から楽しみでしょうがない。

岩男 明文

岩男 明文

あいかわらず写真を撮っています。

Reviewed by
松渕さいこ

海は生と死の宝庫だ、とイワオさんは言う。

人魚姫だって、と私は思う。
あの愛らしい人魚姫だって泡になってしまうのが海だ。

何か永遠に葬り去らなければいけないものを投げ込まれるのも海。
見知らぬ誰かに宛てた、手紙を託すのも海。

生命も行き場のない気持ちも、生まれては死ぬのが海なのかもしれない。それはリゾートのソーダ色の海でも荒ぶる真っ暗闇の海でも同じ。
波打ち際にいると、泡立つ海水に海に溶け込んでしまった命を思ったりする。

日本海生まれの私にとっても海の存在は偉大で、どんなに慣れ親しんでも怖い。

それだのに海のない街で暮らす時間が長くなると、どうしてもあの途方もなさを求めて電車を乗り継いでしまう。目の前にすると声はすぐに出なくて、ただ圧倒される。

世界は私の手のひらで把握なんかできっこないのだけど、こうやって見つめることで時間をかけて知ることはできる、とちっぽけな勇ましさと安らぎを胸いっぱいに広げてみる。

私にとっての、海。私たちにとっての。

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