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2F/当番ノート

『傑作は未だか』第八話(九回目)「横浜に軸足、いろんな所に行って制作

当番ノート 第34期

一点の傑作を作るには。この書き出しで始まる自伝も、今回で最終回である。

本当はもっと書きたかったのだが、生来の時間づくりがヘタクソ・ぐうたら・段取り嫌いが祟り、道半ばでこの自伝が終わってしまう。それは惜しいので駆け足で書こうか、、、と思ったが、「遅い、のろま」と自他ともに思われても、わずかづつ積み重ねていくしかないとひらきなおって、前向きに道半ばでこの自伝を終わろうと思う。

一点の傑作を作るには、今を信じる事だ、愛する事だ、少なくとも、今の私にはそうだ。

前回は、横浜・初音町のアーティストばかりのシェアハウスに移り棲み、描く呑むバイトという生活スタイルになったと、いうところまで書いた。この時期に神奈川県展県立近代美術館賞を受賞したとも書いた。その際、審査員の方に、重苦しい天と地を黒鉛に封じ込めたその手際が見事な「抽象」ですが、ややこぶりな印象をあたえたのが惜しまれます、と評された。根がバカ正直でどこか従順な私は、ではデカイのを描こうと思った、それもとにかく最大限に、そして私は思いついた。屏風状にして立体として出展する事を思いつく(その時は妙案と思っていました)。
神奈川県展は日本画も油画も彫刻もインスタレーションも全部ひっくるめて〈平面・立体〉部門として扱っている。立体の最大規定内では幅6m縦3mまでイケル!!(本当にバカだなぁ)。私はこの計画を実行すべく、芸術家兼実業家の方に電話で直訴。この方の会社で昼間勤務し、倉庫の片隅を使わせてもらって夜制作という生活になる。場所は房総半島の内陸部、最寄り駅から徒歩1時間、イノシシ遭遇1回。横浜のシェアハウスは空けっぱなしにしていた。この制作期間中に2011年3月11日東日本大震災に遭う。私はあの時、何をすべきなんだろうと考えて、作品を作りまくろうと思った。世に背を向けるでもなく、渦中に飛び込むでもなく、目の前の自分の仕事を頑張ろうと思った。幸いその時初めて、生まれて初めて絵の注文を受けていた。その絵も完成し、神奈川県展に向けて、巨大屏風に(6×3mではなく5.5×2.7に縮小)に取り組む。しかし完成して搬入・設営したが、入選すらせず落選。落選した理由はわかっている、スカスカだったのです、絵の内容が。でかくする事だけが主目的になってしまった、またしても。人にはそえぞれ向き不向きがある、タイミングがある。そしてなによりも、横150cm×縦100cmの作品に対して「ややこぶり」と評された次の作品が横5.5m×縦2.7mというのはあからさまにデカすぎた。画面と1mぐらい離れて視界の大半を被うぐらいの横2m×縦1.2mぐらいが良かった。多分、「ややこぶり」と評された不快感もあって、無意味なあてつけもあって、そんな無意味にデカイものを作ってしまったのだと推測する。でも指摘された短所を修正しようとする姿勢はまぁ良い。もしも次にこういうことがあったら、すぐに行動に移さないで半年ぐらい経ってから興奮を覚まし、忘れるぐらいのタイミングで欠点の修正を意識した制作をしたほうが良い(もしくは欠点は欠点のまま、自分の中に大事に保存、修正しないと決断する)。

倉庫に寝泊まりしながら制作に邁進している間に、初音町のシェアハウスはなくなってしまった、ある事情で。
神奈川県展に、前回の欠点を克服した作品を出すという主目的は、結果は惨めなものであったがまかりなりにも一応終えた。房総半島の倉庫にいる理由がなくなった、、、初音町のシェアハウスもなくなっていた。また、寝泊まりする所がなくなりかけていた。でもまた、大道具の神様が私を救ってくれた。数年前に退職した秋田の劇団から3ヶ月だけ仕事しないかと誘いがあったのだ(それにしても絵画の神様にはなかなか見てももらえないのに大道具の神様には困った時、身体極まった時、どこからともなくタイミングを見計らって救いの手をさしのべていただいている。ありがとうございます)。

2011年の9月から12月まで岩手県の北上から九州の島原まで旅公演についてまわり、セットの設営・撤収、本番中に芝居に合わせてセットの移動などの仕事をやらしてもらった。数年ぶりに関わる秋田の劇団はなぜか新鮮で楽しかった。東京の大道具の人たちに怒鳴られまくり、少しは大道具として成長したのかもしれなかった。3ヶ月の契約期間が終わり私はまた、どこかにいかねばならなかった。
横浜駅から歩いて20分の豪邸に短い期間だけ居候させてもらうことになった。

秋田から横浜に戻る帰路、岩手県宮古市から石巻まで被災地を見ながら南下した。肉眼で見ておきたいと思ったのです。2011年の年末、バスでリアス式海岸を集落を一つ一つ経由しながら南下するのだけどなんとも言えない吸い取られるような空虚感を感じた。

横浜の豪邸に居候を始めた私は、居候を始めたその日から制作に取りかかった。自分のぐうたらでいいかげんな性格がこの、新しい制作と生活拠点にこびりつく前に作業にとりかかる(少しずつ自分の欠点を克服してきている)。
この横浜の豪邸居候の時期くらいから毎月、何かしらの発表の機会に恵まれた。個展であったりグループ展であったりパフォーマンスであったり、最初はそういう機会があったらいいなぐらいの気持ちだったのだが、次第に吉本伊織というアーティストがいることを他人に認めさせ、自らを鼓舞させるため無理にでもそうした。
この豪邸居候は10ヶ月続いた。次に引越したのが同じ横浜の長者町のビルの4階、間口3m強・奥行き9mぐらいのキッチン・トイレ付きの一室である。ここへの引越しは2012年の10月くらい。ここには振り返ると一番長くまた濃く棲みついた。2015年の5月までいたから2年半。たかだか2年半だがとにかく濃かった。この長者町のビルは全体がアート施設であった。1階がアトリエ、2階がアートスペース、3・4階がアーティスト向けの居住スペースになっていた。一番最初に引越しした、その日、隣の隣に旧知のダンサーが先に住んでいて、その彼が、初音町のシェアハウスのときにお世話になった油彩で風景画を描く画家と陶芸家の友人を連れて、酒を片手に引越し祝いの宴会を開いてくれた。景気づけに開けたシャンパンのコルク栓が蛍光灯の豆電球に当たり(凄い偶然)割れた。当惑している私に、さい先が良い言ってくれた画家とダンサーと陶芸家のデラシネぶりというか、デタラメぶりに私は少しだけ憧れていた。

この長者町というところは街全体が巨大で、豪華な歓楽街で本当に賑やかで、夜でも昼でもネオンと喧噪に満ちていた。私が棲む最上階4階の一番奥まった部屋で、部屋の前に作品が溢れかえっても誰の迷惑もかけず便利だった(良く思い出すと管理されているNPOの方には注意されていた、また、エレベータが無く、階段で移動するものシンプルで良かった)。
引越し祝いの宴会の次に行ったのは、制作に専念すべく、部屋をアトリエに改造することであった。もともと手狭な部屋から寝るとか食事とかの「描く」以外の要素を出来るだけ排除すべく。押し入れをドラエモンの寝床風に改造して、その前に小さな作品の収蔵庫みたいなもの作った(木製W120cm×D90cm×H天井に届くぐらい)。
この頃の生活は展示における絵画の売却利益・ワークショップ等によるアーティストフィーなど作家として得るお金と、美術館の壁を白く塗ったり、高級ホテルで絵画作品を設置する施工のバイト料、著名アーティストのアシスタント料と、寝ても覚めて美術だけという生活をして忙しかった。
横浜を軸にさらに作家活動を増幅すべく、九州天草でのレジデンス、茨城県取手市の作家たちの交流展、石巻でのレジデンスなど作家活動を繰り広げるようになる。次のステップへ次のスッテップへということばかり考えていて、今思うと、もう少しだけ時間をかけてじっくり取り組むことが出来なかったのかなとも思う。

と、この自伝も今回で最後である。そろそろ結論というか終わりの支度をしようと思うが、その前に、この自伝のプレビューをご担当してくださった寺島大介さんにこの場をかりてお礼を申し上げたい、このような文章に、詩的な文を添えてくださり本当にありがとうございました。いつも〆切を大幅に過ぎて申し訳ありませんでした。

さて、黒部でみた傑作から端を発して、様々な土地でたくさんの人に会い、2017年9月に至る自伝はまだ書き終わっていない。横浜・取手・石巻・天草と巡り、富山県に帰るという現在、というか帰結に至る。そこのところを書きたいと思うが、筆を置く。

ここに至って、ようやく私は何より大事な事は、続ける事だと思うに至る。

スクリーンショット(2017-09-29 5.52.34)
「景 石巻の海」(2015年、アクリル・黒鉛・顔料・墨汁)

ioriyoshimoto

ioriyoshimoto

吉本伊織1978年富山県生まれ。大道具や美術作品の施工など様々に転職、上田市や天草市など様々に転居を繰り返す。今、私にとって一番大切なことは絵を描く事です。好きな食べ物は焼き魚。(数少ない)主な収蔵先:神奈川県立近代美術館

Reviewed by
寺島 大介

破天荒な行動と強い実行力、そこから生まれる作品は意外なまでに静かで、落ち着いている。抽象と風景の狭間で重く、深い時間が画面の中を流れている。それは傑作を思い描く時、伊織さんが実際に眺めている景色なのかもしれない。語る自信の物語はつねにおかしみにあふれていたけれど、作品の画像には作ってしまった、語ってしまった後の悲しみや寂しさが強く出ているようにみえた。祭りの後のように、そこには事後の雰囲気と、もちろん次に何かが起きるであろう可能性の光が静かに射し込んでいる。つづけること、それはつねに、今見えている景色の中にある光を見つけ、光源に向かう道を進んでいくことなのかもしれない。

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