「地獄寺」―あの世とこの世の境界にある、人間の本音が隠れている場所―
◆地獄めぐり day 11
前日、ランパーン県で学生に日本語を教えているという友人の家に宿泊させてもらった。そしてこの日、なんとその教え子のお母さんが目的地の地獄寺まで車で送ってくれるというので、お言葉に甘え連れていってもらうことにした。タイで地獄めぐりをしているとこういうことがたまにある。見知らぬ私を100%の善意で送ってくれる。タイ人は本当に親切の塊である。その人助けの精神にはいつも驚かされる。
集合は朝の7時。素敵なお母さんの車に乗せてもらうこと30分、目的地のワット・ナムプンチャーオライオーイに到着した。お礼を言ってお母さんと別れ、寺院の中を散策した。この寺院には地獄絵があるということだが、すぐにお堂の前面に見つけることができた。
この寺院の地獄絵は少し色褪せてはいたが、とても丁寧に描かれていた。地獄釜の後ろで影となって描かれた亡者がかわいらしい。
調査を終え僧侶と話すため別堂に向かうと、何やら儀式の真っ最中であった。覗いて様子をうかがっていると、中にいた人が「見学していきなよ」と言ってくれたので、おそるおそる席に座った。僧侶が一列に並び、何やらお経を唱えている。その間、お堂の端では数人の女性たちが慌ただしく食事の準備をしていた。托鉢の儀式であるようだ。
タイの僧侶は朝早く托鉢を行う。托鉢と聞くと、日本では僧侶が「食べ物を乞う」という少々マイナスのイメージがあるが、タイにおいてはその認識は全く逆である。僧侶は托鉢により民衆に「徳を積む機会を与えている」のであり、民衆は自ら進んで食べ物を差し出すのである。本来ならば僧侶が街へ繰り出し托鉢を行うが、この寺院のように僧侶がたくさんいる寺院では、儀式として托鉢の場を設けている。
儀式がひと通り終わり僧侶たちが食事を済ませた頃、近くにいたおじさんが「住職に紹介してあげるね」と私を連れて行ってくれた。住職と対面し、少し緊張しながらもいつものように研究の旨を伝え、アンケートをお願いする。住職は快く引き受けてくれた。
しばらくすると、住職は先のおじさんに、アンケートの様子を写真に撮ってくれとお願いしていた。私も便乗してお願いする。その時撮ってもらった写真がこれだ。
調査中、僧侶が一緒に写真を撮ってくれとお願いしてくることがよくある。タイはSNS大国であり、こういった様子の写真を「日本から来た研究者のアンケートに答えた」という旨の文章とともにFacebookにあげているらしい。数あるタイの地獄寺のFacebookページには、私の写真がたくさんあげられているのかもしれない。
いまさら説明する必要もないかもしれないが、私は研究のためにタイの地獄めぐりをしている。地獄めぐりは基本的に写真撮影とアンケート調査を目的とし、これまで訪れたどの寺院でもこれらを遂行している。
アンケートと言ってもごく簡単なもので、寺院の建立年代や地獄空間制作の意図やイメージソースなどの基本的な情報を尋ねるものである。研究としてはあまりにも初歩的な質問ではあるが、現在、地獄寺についてまとまった基本情報はゼロなので、ここから尋ねる必要があるのだ。
アンケート用紙はこのようなもので、基本的には僧侶に手書きで書いてもらう。
中にはミミズののたくったような字を書く僧侶もいて、その解読は骨の折れる作業である。しかしこのおかげで、私のタイ文字解読力はものすごく伸びたので、これもまた勉強のひとつであると自分に言い聞かせている。
そしてこのアンケートの項目には「地獄表現がみられる他の寺院を知っているか」というものがある。そもそも私は地獄寺がどこにあるかという情報をネットで得ており、偉大なる先人の方々が残してくれたブログなどがそれにあたる。これらの情報をもとに行く寺院をリストアップしているのだ。したがって、自分で新しい地獄寺を発見する、ということは第一の目標ではない。しかしながら、一か所でも多くの地獄をめぐりたいという気持ちからこういった質問は常にするようにしている。このおかげで、今までに5か所ほど情報の出ていない地獄寺を見つけることができた。
ワット・ナムプンチャーオライオーイでアンケートを行なうと、アンケート欄に聞いたことのない地獄寺の名前が書かれていた。その寺院は「ワット・サンティニコム」といい、ワット・ナムプンチャーオライオーイからそう遠くない場所にあるらしい。地獄研究家の血が騒ぐ。こうなったら何としてでもこの寺院に行かなければならない。ワット・ナムプンチャーオライオーイを後にし、近くに止まっていたソンテウのおじさんに声をかけた。おじさんは車内でごはんを食べていたが、「いいよ」と快く引き受けてくれた。おじさんが食事を終えるのを待ち、そのままソンテウに乗り込み、胸を躍らせてワット・サンティニコムへ向かった。
30分ほどでワット・サンティニコムに到着した。大きな寺院であったが、境内を見渡しても地獄などありそうもない。(誤情報だったか…仕方ない…)と思いつつも、近くにいた尼僧に「この寺院に地獄はありますか…?」と訊いてみた。すると「あるある!」と意気揚々に答えが返ってきた。教えてもらった場所に行ってみると、何やら建設中の建物があった。
(これが地獄なのか…?)と疑いつつも、堂内に入った。すると、目の前に地獄臭プンプンの地下へと続く階段がある。これは大物の予感。
階段を下りていくと、不穏な呻き声が鳴り響いている。そして、ピンク色の照明に照らされた空間へと出た。
(うおおおおおおおぉぉぉぉおおおお!!!!!!!!!)
この時の感動といったら表現のしようがない。筆舌に尽くしがたいとはこのことである。Beyond description. เกินคำบรรยาย もう半分くらいは泣いていた。こんな大物地獄をおそらく日本人ではじめて発見したのではないかという喜び、喩えるならば海賊が荒波の航海の末にたどり着いた海底洞窟で、キラキラと光る宝石の山を見つけたような感じである。
興奮は冷めやらぬが、調査をしなければならないので、心を落ち着かせてゆっくりと中を見て回る。建物は建設中だが、地獄空間はほぼ完成していた。しかし真新しく、人もほとんど訪れていないようで、まだペンキの臭いが残っている。幸い、この時も訪れていた人は私一人だった。地獄を独り占め、という最高に贅沢な時間だ。
この地獄はぐるっと一周できる柵に囲まれた道があり、そのまわりを様々な亡者が取り囲んでいる。全体はショッキングピンクや緑色で照らされ、おぞましい呻き声や叫び声がスピーカーから絶えず流れている。蛍光色がところどころに施された亡者たちは、暗闇で妖しい光を発している。人間離れした様相の亡者、恐怖やグロテスクさの中にどこかファンタジーを感じる演出、まるでアジア版ティム・バートンの世界だ。
真ん中まで来ると、地獄釜がいくつもあらわれた。緑色の照明に照らされ、本物の水が滴る地獄釜には無数の亡者が助けを求めるように蠢いている。
地獄釜の後ろ側にはテレビが備え付けられていた。いずれ完成したら恐怖の映像でも流すのだろうか。
まるで兵馬俑のような、無数の亡者が立ち尽くしている場所もあった。
空間内には立体像だけでなく、地獄絵も壁一面に描かれていた。
この地獄は何周しても新しい発見がある。結局5周くらいしてしまった。いつまでもこの空間にいたい気持ちは山々だったが、先のソンテウを待たせているので切り上げることにした。出口ではオバケが見送ってくれた。
本当に素晴らしい地獄だった。発見した喜びを差し引いても、空間の完成度、演出へのこだわりはこれまで訪れた地獄の中でも随一である。「あぁ、ここが地獄なんだ」と錯覚するほどのリアリティ。地獄にリアリティを感じるなんておかしな話だ。日本とも西洋とも異なる、恐怖と愛嬌が自由に表現された、これこそタイの地獄。作者の熱意が伝わってくる地獄。こんな新設の地獄がタイにはまだまだ埋もれているのである。ワット・サンティニコムが今後タイを代表する地獄寺になることは間違いないだろう。
完全にワット・サンティニコムの地獄に陶酔しきっていたが、この日はもう一か所めぐる予定であったので、気を取り直して次の目的地ワット・ドークプラ―オへと向かう。一時間ほどソンテウに乗り、寺院に到着した。入るなり真っ黒な亡者たちが目に入る。
地獄寺にみられる亡者は様々な色をしているが、真っ黒というのは比較的珍しいタイプである。また身体の表面はところどころに血が滲み、焼けただれたようにガサガサしている。炎の表現がなくとも、これらの亡者が業火に苛まれているであろうことは容易に想像できた。
中にはゴジラのような亡者や、毛むくじゃらのマンモスのような亡者もいた。
調査を一通り終え、寺院を出た。しかし先のソンテウには長時間付き合わせて悪いと思い帰ってもらったので、帰る術がない。まあ何とかなるだろうと歩いていたが、灼熱の気温に耐えられず意識が朦朧としてきた。時刻はすでに午後1時をまわっていたが、この日はまだ何も食べていなかったのである。気力もなくなってきたので、近くにいたおばさんに「この辺にバスはありますか?」と尋ねたが、「そんなのないよ!」ときっぱり言われてしまった。さらに「なんでこんなところにひとりで来たの?!危ないよ?!」と小言を繰り返され、これ以上は埒があかないと別れを告げた。心配してくれている気持ちはうれしいが、こんな過酷な地獄行脚に付き合ってくれるような人はなかなかいないのである。私だって助っ人がいればどんなに楽かと思っているところもあるのだ。
疲れは限界に達していたが、またぽつぽつと歩き出した。が、いつまで経ってもバス停など見当たらない。来た道を戻るとまた先のおばさんに出くわした。今度はおじさんが2人ほど増えている。気まずいが呼び止められたのでおばさんたちに近づいた。「この子バス停に行きたいらしい。」「でも歩きじゃ行けねえぞ。」…という会話が繰り返された後、おばさんが「しかたない。私が送っていくよ。乗りな!」という男前な一言を発した。この日は先のソンテウに何時間も待っていてもらいお金もずいぶんかかってしまっていた。そういう時はあえて帰りの足を確保せず、行き当たりばったりでどうにかする。私はいつも何キロでも歩く覚悟でいるが、時には無理があることもある。そして自分ではどうにもできない時、いつもこうやって人の親切に出くわすのである。
おばさんのバイクにまたがり、バス停へと向かった。途中、どこから来たの?などという他愛もない会話をし、本当にひとりで来たと言うと、「よく来たね~えらいよ!」と言ってほめてくれた。おばさんは依然としてさっぱりとした態度をとっていたが、急に優しい言葉をかけられて、私はなぜか泣きそうになってしまった。そしてバス停に着いた。おばさんは「この子を○○まで送ってあげて!頼んだよ!」と運転手に取り継いでくれ、私たちはかたい握手をして別れた。おばさんはさっきとは打って変わって満面の笑みを向けてくれた。
なんだかんだで、やっぱりタイ人は親切なのである。困っている人を見ると放っておけない。みんなあまりにもおせっかいで、私はその親切に次から次へとはまって抜け出せない。そんなタイ人の地獄のような親切に助けられて、私の旅は成り立っている。そう実感したランパーン県の地獄めぐりであった。
タイの地獄めぐり⑤ ―棘の木も地獄の賑わい― へ続く。