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2F/当番ノート

信仰と私。

当番ノート 第36期

「あなたは神を信じますか?」

一昔前、そのようにいきなり路上でガイジンさんに聞かれたものだった。
ガイジンさんと言うことで、何故かたじろいでしまう由緒正しい日本人な私である。
ちゃんと日本語で話しかけてくれているにも関わらず、
「アナタハカミヲシンジマスカ?」という音の連なりにしか聞こえてこず、意味を解すことが出来なかった。
たぶんガイジンさんに対する怯みもあるけれど、
信仰、宗教というものを自動的にシャットアウトしてしまう、そんな心理が働いていたように思う。
しかし、最近はそんなガイジンさんに会うことは無くなった。
絶滅したのだろうか。よく駅前とかにいたのになぁ。

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(↑なんとなく神々しい写真)

信仰や宗教と聞くと少し身構えてしまう、脊髄反射で「怪しい」となってしまう。
それは何でだろうか?
ま、新興宗教さんがイロイロとやらかしてくれたのを見てきたから警戒している、というのもある。
しかし、それだけではないようにも思う。
信仰や宗教に強い憧れを確実に感じているからだ。何かを一心に信じるというあり様に。
「神と私」という侵されざる絶対的な領域が、信仰を持っている人にはある。

それに比べて私はどうだろうか。
正月には初詣をし、節分では恵方巻きをくわえつつ豆をまき、
バレンタインにはチョコを食いたいけどもらえなくて悔しがり、
4月にはしっかり嘘をつき、お盆には意味もなくしっかり休み、
ハロウィンでは訳もわからず仮装を楽しむ人を楽しみ、
クリスマスでは戦いを挑み毎年敗れ去り、除夜の鐘を聴いてしっぽり年越しを感じる、という人間だ。
宗教ってマーケティングやイベントでしたっけか?という誠にふざけきった態度である。

であるからして、「神と私」という絶対的な領域に圧倒的にうしろめたさを感じる。
でも、「じゃ、ここはひとつ入信を」と迫られるとムーリーとなるのだけど。
だから信仰や宗教は求めつつも、絶対に手に入らないものなのだ。

が、しかしだ。
数年前に私にも清浄にして無垢なる信仰がある事に気付いた。
自分で自分を観察し、気づいたのだけれど、これこそ天啓。

さて、我が無垢なる信仰とは「釣り」でありました。

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(↑渓流釣りの風景)

はい、あの魚釣りです。
はい、異論反論オブジェクションあろうかと思います。
あろうかと思います、あろうかと思いますけれども、、、、

それでも敢えて言おう、「釣りは信仰である」と!!

まず釣りを大雑把に説明しますと、
海や川などに行き、エサなどをつけた釣針を釣竿に糸でつなぎ、
それをば魚のいそうな所に投じまして、
魚に食べさせて釣る、そのような行為、遊びということになります。

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(↑岩魚という魚)

当然ではありますが、魚は水の中に住まいしております。
そのような訳で我々釣り人からは、水中の彼ら魚族の姿は基本的には見えません。
はい、ここ重要。
相手の姿が全く見えないのに、我々釣り人はそこに釣針を投じるわけであります。
そこに魚がいると信じているから釣針を投じるのであります。
目に見えぬものを「いる」と信じること。
この図式はそのまま信仰の形と同じと言えると思います。

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(↑毛針という疑似餌の一種)

そうこうしていると、たまに魚がかかり、釣り上げる事が出来る。
これは信じていたから起こった事であります。
信じる者は救われる。ではなく、釣れるのであります。
しかしながら、釣針を投じたからと言って毎回魚が釣れる訳ではありません。
大半は見向きもされず裏切られ続けるのであります、いたいけな我々釣り人は健気に釣竿を振り続けます。
その信仰は絶えず試され続けるのであります。
でありますから、我々釣り人は信仰の道が如何に厳しい茨の道であるかを知っております。
たまに交わされる魚との邂逅によって、己が信仰の正しさをしり法悦にひたるのです。
そして、信仰は一段と深まるのです。

どうでしょうか。
釣りが如何に信仰であるか、お解りいただけましたでしょうか。

私は何の因果か、これまた釣りキチの父の元に生まれつき、
物心ついた時から釣竿を握らされ、以来30年超の釣り人です。(主に渓流釣りの)
魚を釣るという「手段」であったのが、
今や釣りだけできていれば良いという、釣り自体が「目的」になってしまいました。
魚に会いに川に立っていさえすればよい。釣竿を振っていればよい。
そう、もう魚は釣れなくとも良い(よかない時もあるけど)という所まできました。
これは如何なる事であろうか?
と考えていましたら前述の通り天啓を得るに至ったという訳です。
そうして晴れて「信仰」を持つに至った。。。という我が信仰の告白のお話でありました。

おしまい。

杣Books(細井岳)

杣Books(細井岳)

だいたい杣(林業)、ときどき本屋。
心の本業は釣り人。
やっている事は九割がたが冗談。

Reviewed by
佐藤 友理

読後「わたしにとってのそれは何だろう?」としばらく自問してしまいました。

テーマは「信仰」。合理性や整合性とははなれたところで無条件にその存在を信じる「侵されざる絶対的な領域」への憧れと畏怖。でもそれは宗教特有というわけではなく…

「魚に会いに川に立っていさえすればよい。釣竿を振っていればよい。
そう、もう魚は釣れなくとも良い(よかない時もあるけど)という所まできました。」

今回も思わぬところへ展開し、それに道連れにされるのが快感。でもただ面白いだけじゃなく、余韻の残る深いテーマです。

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