入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

写真を撮っても撮られても

当番ノート 第40期

ぐしゃぐしゃの頭で着替えだけしてパソコンを開く。
ベッドサイドにスープと飲み物だけ用意して、そのまま書くことにした。
眼精疲労であいかわらず目はよく見えない。

小学生の頃だったか、たしか目を閉じて絵を描くことをした気がする。
文章はわたしの我流のタイピングでは無茶苦茶になりそうだ。
写真ならどうだろう、と思ったら、すでにやっていたと気づいた。
わざと被写体を見ずに撮ることは、写真の手法のひとつであるらしい。
その手法に名前はあるのだろうかと気になった。

今年に入って買った、富士フイルムの小さなデジタルカメラ。
わたしの小さな手にもおさまるサイズなので、あちこち持ち歩いて道端の小さな花なんかを撮る。
だけど、どうしても人だけが撮れない。
目をまっすぐに見つめることはできるのに、カメラの目では相手を見れなくなる。
だから、道端で手をつないで歩く親子を、そっと撮ったりする。ファインダーを覗かずに。
失敗することばっかりかと思いきや、意外とうまく撮れるのだ。
もしかしたら、相手を見つめすぎないほうがその姿は形に残るのかもしれない。

一方でわたしは写真に撮られるのが好きだ。
もともとはものすごく嫌いだったけれど、何年も毎月遊んでいた友だちがわたしを被写体に。めちゃくちゃな量の写真を撮っていたので、慣れてしまったのかもしれない。
そこにはいつものわたしの表情が、自分の想像する形と違って写っていた。

写真家の人の練習台になったこともあった。
毎回テーマを決めて、ライトなどで普段と全然違う姿になるのはが面白かった。
それもまた、普段とはやっぱり少し違った。

撮っても。撮られても。
多分「写真」ができるというシンプルな結論にたどり着く。
生の目で、耳で、見て聴いたときの「その人」はどこにいるんだろう。

見つめすぎても見えなくなる、しっかり写してもらってもなんだか違う。
永遠に自分の幻影を追っているようで果てしない思いになる。

こんなに手軽になった写真は、いつまでたっても「あの人」を写さない。
20180815-01

(BGM:「Lemon」米津玄師)

マスブチ ミナコ

マスブチ ミナコ

現代アーティスト。生きづらい自分が死を選ばないような工夫をや思考を重ねて、過去も含めた人生を作り直しています。自分の欲しいものは世界のどこにもないので自分で作ると決めました。

幼い頃から好奇心が強く、やりたいことが次から次へと増えていました。覚えている限り最初に抱いた夢は「ピアニストと獣医師(兼業)」。蓋を開けてみると、Webデザイナー、イラストレーターなど興味を持てばとにかくやってみるようになり、見たことのない景色を見るために「深める」「広げる」にこだわらず波乗りできるアーティストに転向しました。

Reviewed by
たかだ まなみ

確かなこととは、どんなことだろう。
8センチメートルの距離は、正確にじぶんの像を相手に届けるだろうか。
1000マイル離れても、想いは通じると信じちゃう年頃もあるけれど。
  
どんなにいい音楽にも、すべての人を感動させる特殊な振動がないように、
にんげんにはバラつきがあるから。
   
  
カメラのレンズならどうだろう。
   
「正確に」
「ありのままに」
むすんでくれるんじゃないか、と期待する。
 
 
(でも、やっぱりそんなことはないのよね)
  
  
本物を探したい。
ゆらぎのない像をむすびたい。
一瞬でも留めておくことのできない他人は「虚像」かもしれない。
  
寂しさだけがリフレクション。
  
   
  

カシャっカシャっカシャっ。
  
  
  
(シャッターは、生きてるねって言ってるよ)

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る