家賃3万円、ワンルームのアパートに暮らしていた。週4〜5日街頭でチラシ配布のバイトをしながら生活費を稼ぎ、大学院に通い、演劇コンクールに応募して、作品を立ち上げる。貯金はなく、もやし炒めとサバ缶、コンビニで買えるひじきや切り干し大根をローテションしながら、奨学金返済に怯えていた。
それでも、世に突きつけたい問いを演劇作品として立ち上げながら、コンテンポラリーダンスに向き合っている彼女と理想の稽古場について語り、深夜の公園でダンスを教わる日々は恐ろしいほどに心地よかった。
2月、バイトが終わって、彼女と合流し、お惣菜を買ってワンルームへ帰る。シャワーを浴びて万年床へ横になり、深夜のバラエティ番組を眺めながら、肌を擦りつけて暖をとる。外からは雨音。
電話が鳴る、母から。
「おばあちゃんが、救急車で運ばれた。風呂で溺れていたらしくて、今病院に向かってる」
家の鍵を彼女に渡し、家を出て、祖母が運ばれた病院の最寄駅へ。母が乗った車を見つける。
「間に合わなかった」
助手席に座り、そのまま病院に向かう。緊急外来用の入り口に着く。父が立っている。雨が降っている。傘はさしていない。目が合うと、父はそっと口を動かす。
「悪いね、忙しいのに」
突然、めまいがする。
「おばあちゃんは」
「こっち」
治療室のカーテンを開ける。口から外されたばかりの呼吸器は、まだ中途半端に身体に巻きついている。前歯がややむき出しになっていて、人間って動物なんだなと思う。母は「お義母さん」と顔を触り、手を握る。
私は「悪いね、忙しいのに」という言葉をかけられてから、めまいが止まらなかった。家に帰ると彼女は起きて待っていた。私は「そういうことじゃないじゃん」と説明もせずただただ駄々をこねた。
***
「家族に、『あいつは忙しい』と思わせていることへ罪悪感を感じてしまって。母親が亡くなったばかりの父に『悪いね、忙しいのに』と言わせてしまった。
自立した上で、自分のやりたいことやってきたつもりだったけれど、好き勝手歩んでいる私は、周りにたくさんの気遣いを発生させていた。もうどうすればいいかわからなくなって」
数年前、とても好きだったヒトに、特に付き合っていたわけではなく、会う頻度も少なかったけれど、確かに好きだったヒトに伝えた。
「お互いにいいヒトなんですね。お父さんも、あなたも、言葉足らずだけれど」
ずっと、この言葉が欲しかった。ゆるしてほしかった。プライドを拗らせて、自分で自分をゆるすことがダサいと思っていたから、正義感に酔っていただけなのに、他人からゆるしてもらうことを待ち望んでいた。
それから身体の力が抜けて、あの雨の日の出来事を思い返す機会が減った。好きだったヒトから連絡が来ても、返信ができなくなった。
***
2019年、目の前にやるべき仕事がある。やりたいことがあり、それにつながる仕事だと思える。生活の大部分を仕事に注ぐ。
ちょっとずつ積み重ねて、ちょっとずつできることが増えて、知っていることが増えて、知らないことはますます増えて、家に帰ると妻がいて、一緒に夕飯を食べて、お風呂に入り「今日の仕事はどうだった?いつトイストーリー4観に行く?式の準備どうしようね?SixTONESがデビューしたね」と話す。
充足感が、なにかを薄めて蒸発させていく。いかないでおくれ、まっておくれ、ゆるされただけで、変化できていない自分を見張っていておくれ。
***
言葉には言霊が宿る。だとするならば、ネガティブな発言や視点に執着することは、自分をその環境に縛り付ける呪いを自らかけることかもしれない。かといって、ポジティブな発言や前向きな言葉を取ってつけようとは思えない。私の身体から、口から出る前の言葉を、もう少しじっと見つめる。
ゆきずりという言葉がある。道ですれ違うこと、たまたま通り過ぎること、かりそめであること、通り過ぎる時に触れ合うこと。ゆきずりがポジティブに使われることはあまりない。でも私はこの言葉が好きだ。
たとえ、かりそめだとして、すれ違う行為を可視化してくれる言葉。そこからはじめたい。呪いになり得る言葉が祈りに変わるように、じっくり抱えたい。そんな自分を蒸発させないように、ゆるさない自分とゆるす他人とゆれる自分と。つながらないメモを残して他人とゆきずり。