こんにちは、どるこです。今回から2ヶ月間こちらで投稿させていただける機会をいただきました。1番初めの投稿ですので、私が何について投稿していくのか、及び投稿に関しての設定というか、前提を説明させていただきます。
まず、何について投稿していくかですが、何かテーマを決めると書きやすいといったアドバイスをいただき、私もそれなら面白くできそうだなと思いましたので、この2ヶ月間の投稿は1つのテーマに沿ってまとめていきます。題して、「トルコで出会った女性たち」です。
続いて、投稿に関する設定です。
・この投稿では、トルコで出会った印象的な女性たちとその周辺の記憶について書かれる。
・回想中は、過去のことでも基本的には、現在形で書かれる。(記憶の中で私はその時間に戻りその光景を観察して書くため)ただし、書くときの視点やその時点よりも過去、継続した時間軸の幅のある事柄など、場合によっては過去形になり得る。
・回想中は、ですます調は省略。(私は物事を観察しているとき、ですます調では考えないため、彼女たちとの記憶を書くときにはいわゆる常体、だ、である調)
・登場人物に関して書かれていることは全て、決して悪口ではない。(たとえ、そう見えても。)
・私はピックアップされたその女性たちを尊敬し、今でも会いたいと思っている。(それくらい、好き。)
もちろん、私も投稿するときは言葉を慎重に選び、あくまでもポジティブな内容にまとめるように努めますが、以上のことを前提として皆さまにも読んでいただきたいと思います。それでは、「トルコで出会った女性たち」第1弾、「ハティジェ」。どうぞお付き合いください。
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「リカム、リカム!!オトゥルオトゥル(私のリカ、私のリカ!!座れ座れ)。」ソファに座りながら自分の脇の空きスペースをバシバシ叩き、甲高い声で私を呼ぶのは、そう、ハティジェだ。ここはトルコのパムッカレにあるとあるホテルのレセプション。そして「リカ」は私の本名だ。(第1弾で早くも私の本名が明らかに。)ハティジェは、目が私よりもギョロギョロしていて顔も体もまんまる。Tシャツにモンペ、靴下につっかけサンダル。頭にはスカーフをかぶっている。パムッカレ村のあるデニズリ県のどこかの村出身で、夫の兄がオーナーを努めるこのホテルで夫が旅行客の送迎担当、ハティジェはお掃除を担当している。特徴的なのは見た目だけではない、声だ。裏声なのだ。彼女の本当の声がそうなのか、単に発声方法を今の今まで誰にも指摘されずに育ってしまったのかわからないが、とりあえずずっと裏声で喋っているのだ。裏声なんて小声では出せない。だからおのずと大きな声になる。そもそも出会ったその日からもう「私の」リカになってしまっているところからなんだかおかしい。どれだけ所有欲が強いのだろうか、それとも友達がいないのだろうか。
私が横に座ると、「カンカ、カンカ!(親友、親友!)」と嬉しそうに言い、両拳をクロスさせてリズミカルに手首同士を打ち付ける。これが何を意味するかはわからないが、近くに座っていた他の従業員が「カンカ」とは親友の意味だが、元は血を分かち合った兄弟のような意味で、転じてそれくらい仲の良い仲のことだと説明してくれた。いやいや、そんな仲であるはずがない。ハティジェは、まだトルコ語なんててんでわからない、ましてやこれから先喋れるようになるかもわからない(このあとなるのだが、、、)この日本人の私のことがなんだか気に入ったらしく、「アブーーウッ!」と言って私のほっぺたを折り曲げたチョキでつねり引っ張ってピッと離す。これはトルコ人が小さい子供を可愛いと思ったときにやる仕草で、それを当時23歳の私にやるのである。
ハティジェのことをハンディキャップのある人だと感じる人もいるかもしれない。どちらかといえばその基準に近いところにハティジェは位置していると思う。実は私にはダウン症の叔母がいて、その叔母は私がいけないことをしたらちゃんといけないよ、と教えてくれたり、何事にも純粋な彼女の存在は私の価値観にとても大きな影響を与えているのだが。その叔母も丸々とふっくら色白で、ハティジェを初めて見たときあまりにも雰囲気が似ていたので何を言っているかは全くわからないものの、親近感を覚えたのであった。少し一般的な人とは違ったところはあるものの、ハティジェは結婚もしているし、2人息子もいる。(弟の方は養子に出されている。)お掃除も得意だし、この仕事の前はデニズリで服を売る仕事をしていたらしい。コーディネートもしっかりしていて、Tシャツやズボンの模様の色とスカーフの色をそろえたりと全体でバランスをとっている。ハティジェとその夫は同じ村出身で、近すぎず、でも遠すぎもしない親戚同士らしく、おそらくそんな境遇はその人口の少ない村では当たり前でハティジェのような人を何か特別なカテゴリーに分けて特別な措置をすることもないのだ。そのホテル、その系列の旅行会社で働く人も、彼女にそんなに深入りすることさえないが、影で何か言ったりもせず、ハティジェはそういう喋り方をするそういう人だ、という感じで仕事の合間はみんなでレセプションのソファでくつろぎ、一緒にお茶を飲み、テレビを見ながらひまわりの種をカリカリカリカリするのだ。
さて、当の私はというと2013年3月に大学を卒業したあとバックパッカーをしていたのだが、そのホテルのレセプショニストと良い感じの仲になってしまい、そのレセプショニストと仲の良かったそのホテルのマネージャーが、日本人旅行客の世話と、日本語でツアーやパラグライダーの説明をしてできれば売りさばくという条件と引き換えに無料での宿泊、3回の食事、カッパドキアツアーを提供すると言い出したのでその話に乗り、しばらくそのホテルに居座ることにしたのだ。2019年の現在ではそのボーイフレンドとの思い出は記憶の奥底に埋もれてしまい、人生の汚点にさえ思えるような思い出たちをあえて引っ張り出すようなこともしなかったので鮮明さが薄れに薄れ、当時の思い出といえば強烈なハティジェと過ごした日々なのであった。
石灰棚の他に特に何もないようなパムッカレ村で私は特にツアーやパラグライダーを売れることもなく、(1回や2回くらいは売れたが。)ホテルに来たお客さんと出会い、話し、見送り、新しいお客さんと出会い、話し、見送り、、、というのんびり生活が続くことになるのだが、ハティジェは自分に日本人の知り合いができたことが嬉しかったのか、同じように目がギョロギョロした私を見て子分ができたのかと思ったのか、そんなに日にちのたたないある日、「朝食の皿洗いをあんたは手伝う。」と言ってきた。「手伝って」ではなく、もう私が彼女と一緒に皿を洗うことは彼女の中の決定事項であった。私は、どうせ朝食後は暇だし、何もしないでぼーっとして周りからあいつは何もしないと思われるよりかは皿くらい洗った方が良いとも思い、「わかった。」と承諾した。
それから毎朝朝食後ハティジェと皿を洗った。パムッカレは、トルコツアーでマストで訪れられるほどの観光地。バックパッカーの数も多い。そのホテルの価格はバックパッカー向けなのでシーズン中はたくさんの人が利用する。アメリカ、カナダ、マレーシア、タイ、中国、韓国、日本などと出身国も様々だ。(ヨーロッパの人は大抵バカンスにトルコに来るので、わざわざパムッカレに1泊しに来る人は少ないように思う。)しかもパムッカレは1日あれば足りるため1泊だけの場合が多く出入りが激しい。ホテルに泊まらずに日帰りの人でも、早朝にデニズリのバスステーションから半ば強制的にこのホテルのレセプションへ送られ、コミッションで生活しているトルコ人たちからツアーやパラグライダーの押し売りをされ、ホテルのマネージャーから朝食を売りつけられるので(さすがに日本人バックパッカーたちは財布の紐がきつくあまり朝食をホテルではとらないが。)シーズン中の皿の数は小さいホテルとは思えないほどの数に登る。その皿たちをまずハティジェは水の入ったおけにつけ、そしてなんと車の写真がパッケージになっている何かの液体を少々加え(洗車用の液なのかなんなのか、怖くて聞けなかった。)汚れをふやかして落ちやすくなったところを洗剤でさっささっさと洗い、それを私が流し、皿を並べていくという流れ作業で洗っていく。
ハティジェと皿を洗っているとき、彼女はいろいろと指示をしたり質問をしたりしてくる。まだトルコ語はよくわからないがハティジェの言っていることはなんとなくわかる。念が強いのか、彼女の気持ちが伝わる。真正面に目を見て、まっすぐに伝えてくる。私もなんとか自分の言いたいことを伝えようと頑張る。ハティジェもわかったような雰囲気を出す。ハティジェともっとスムーズにやりとりしたい。これが私がトルコ語を勉強し始めるきっかけ、原動力となり、3ヶ月の滞在のはずが6ヶ月、1年、、、と延びていき場所は転々としたものの結局5年間のトルコ生活でまあまあ喋れるようになってしまうとはこのときの私は思ってもいない。私はまあまあの朝のんびり型(というか朝は低血圧なのかのろのろとしか動けない。)なので、早朝のツアー押し売り戦場には滅多に居合わせることがなく、おのずとツアーを売るに至らないのだが、(旅行会社からしてみればただの役立たずのお荷物。)ホテル側にしてみれば皿は洗うしいろいろ手伝ってくれるし、旅行客の面倒をよくみるので私がいても損はしない。というわけで居場所はあり、居心地も悪くはなかった。ハティジェも皿洗い以外は私に何も要求せず、ちゃんと自分の仕事を自分でやるので皿洗いが終われば、旅行客が観光している昼間はのんびりと散歩したりお茶を飲んだりお昼寝したりトルコ語を勉強するのが日課だ。
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まだまだハティジェについての思い出はありますが、そろそろ長くなってきたのでここら辺で切り上げます。まさかこんなになるとは思わなんだ。そして、2019年現在ではあのホテルはどうなっているのかわかりません。(もしかしたら違うオーナーが経営再開しているかも?)4年ほど前、パムッカレ自体が某ガイドブックで銃殺事件も起こる危険な町として(まぎれもない事実。でも、マフィアの間だけですが。)紹介されてしまい、パムッカレ全般的に宿泊するのはお勧めしないと書かれ、客足が遠のいたのか、2年前の情報ではそのホテルは倒産したということです。
あんなに嫌になって出てきたトルコがこうやって書いているとなんとまあ懐かしく恋しく美しく思えるのはとても不思議です。では、また次回。次回はアンナについて書く予定です。