わたしは、「絵を描く人」のことを心底尊敬し、羨ましいと思っている。
ここでいう「絵」は意味合いとしては「画」のことで、デザインや写真作品なんかも入ってくるかもしれない。
絵は、速い。
絵は、つよい。
瞬間的に、受け手の心に届けることができる。言葉よりもずっと多くの印象や情報で、心をゆらすことができる。
中学生の頃から、絵を描ける友人を心底尊敬していた。
わたしの拙い文章力で説明する世界観を、彼女は線にして、立体にして、存在としてそこに生み出した。
それは机上の空論めいたわたしの脳内世界が、まるで現実に息をする瞬間のようだった。うつくしかった。
鉛筆でも、ペンでも、絵の具でも、デジタルでも。
彼女が描くものはすべてが魔法のようだった。
わたしは「絵」に憧れた。自分も少し絵を描くようになった。難しいけれど、楽しかった。
夢中で線を重ねるデッサンや、水の加減をしながら色を滲ませ重ねる水彩画が特に好きだった。
けれど、わたしの描く絵はいつも弱かった。臆病で、飛び出せないわたし自身を表しているようだった。
絵の具を少し濃く塗る瞬間は、心臓が飛び出そうになる。
「今」の美しい状態を壊す可能性が恐ろしく、これ以上筆を重ねるのはやめようかという気になる。
鉛筆で描くデッサンもそうだ。
重ねて重ねて、もう十分な濃淡だと思って他の人の作品を見ると、圧倒的に自分の絵は淡い。
嗚呼、これはわたしなんだ、と思った。
絵には人間が出る。それは作品の世界観というよりも、きっと線の一本一本に。
強い線、強い色が描ける人がうらやましかった。
どんなに思い切って塗りつぶしても羨む濃さでは描けなくて、それに気づいて以来、絵を描くこととはなんとなく疎遠になっている。もったいないな、と思う。たまに、とてつもなく恋しくなる。
人生で「言葉」と付き合うようになった今も、デザインやイラストや写真というものの力を羨ましいと思うときがある。
言葉は、“読んでいただく”ところからしか関係性を始められない。
絵のような、瞬間的でスピーディーな、引力の強い出逢いをもたらすことは不可能だ。
言葉は、遅い。
言葉は、よわい。
コピーライティングなど、「速い言葉」「つよい言葉」になる瞬間もあるけれど、その時に言葉は「絵」の要素を借りているのだと思っている。
それぞれの特徴が異なるからこそ、絵と言葉は混ざり合うことで膨大な可能性を生み出していくのかもしれない。
わたしは絵が羨ましい。けれど、やっぱり、言葉にはずっと、そばにいてほしいなぁと思う。
▼ 言葉の拡張 #6 泡沫
【 絵 / 映像 / 言葉 】
「言葉の拡張」では、さまざまな表現手法を行き来しながら、
言葉というものの拡張を実験的に試みていこうと思います。
第六弾は、絵と、映像と、言葉。
今回は山田光留さんの絵による映像作品からもらったインスピレーションで物語をつくり、ひとつの作品をつくりました。
ゆらゆらとたゆたう世界を、月曜日の夜にゆったりとお楽しみください。
たぶん、夢みたいなものだった。
朝焼けの海と、朧げな光の
奇跡なんていうにはあまりにありふれた
臆病なあなたとわたしの、平凡な夢幻。
「みんな他人だよ」
そう言うあなたの淡白な声に
引力を感じてふれあった夜
浅はかだと笑えるくらいの余裕は、
わたしにだって、残ってはいたけれど。
午前10時にホットミルクを飲むような
そんな、気怠くあたたかな感じがしたんだ、あなたには。
棘のある苦い香りが
わたしの肺から、体の奥を濁していく。
それでもいい、と思う。あなたと一緒なら。ひとりぼっちで残されるくらいなら、ふたりで緩やかに絶えた方がいい。そんな気持ちを抱くのは愚かだっていうこともわかっていたけれど、それでも。
「……ネオンって、海の光に似てる」
街を見ながら口にする。ここは深海とも似ているのかもしれない、と思う。
水底から這い上がるには、差し伸べられる手を掴まなくては。
「行くか、海」
見上げた先の横顔は、ネオンの光をただぼんやりと眺めていた。
あなたは純粋で、だから、深く傷ついて大人になった。
「結局、どんなに近くなったって、二人は一人にはなれない」
膝を抱える子どもみたいなあなたに、手を、伸ばして。
「信じて」なんて、言ったところで何の意味もない。
だから、ふたりで、海に行くんだ。
———PLAYERS
movie/edit/illustration
山田光留 yamada hikaru
text
中西須瑞化(藤宮ニア)