スカートのひだに恋心を隠しても彼女とあなたは美しかった。
朝礼前の使い古されたベランダ。ペンキが錆びた手摺り、ざらつく赤茶色
彼女が触れても崩れ落ちるのだろうか。彼女の桜のように白く優しい指先も同じように汚れるのだろうか。
彼女とあなたは美しかった
朝日の中、優しく笑うあなたがこちらを向かない。わたしは教室の入り口から動けない。
カーテンがゆっくりウエーブして、風、澄んだ空気、可愛いね、好きだよって笑い声、教室に押し流して、わたしは頭から口から内臓の端、つま先まで浴びる。
十六歳のわたしはどこにも行けずに、ただ手に入れることのない春を見つめていた。それがわたしのものでなくとも、彼女とあなたが幸福ならば、それは世界すべての幸いだと信じることにした。
Life is beautiful
渡された絵葉書の言葉は彼女とあなたのためにある。そっと挟んだ小説からあなたと彼女の物語が春のようにさらさらと流れる。春の花は美しい、柔らかい頬、可憐さで心を殺す。スカートのひだから血が流れて美しくないものは排除される。わたしは彼女にはなれない。
さようならを言って飛び降りるほど空は高くなく、ベランダに彼女とあなたが微笑んでる。空から降る朝日が彼女とあなたを照らして、主人公は輝いて目を背けたいほど眩しい。どこにもいない、わたしはどこにも存在しない。筋書きに存在しない。こんにちは、はじめまして。わたしのものではない花束。うつくしい青春。
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春生まれですが年々花粉症が酷くなります。
詩について「この詩は体験談ですか?」という問いがあります。普段発表する詩が暗い内容ばかりなせいか、わたしはあまりこういった質問はされません。不思議だなと思いつつも、事実であるか、体験談であるか、そこのみを見つめるのは詩そのものとは無関係なのでは。と思うときもあります。
青春ってなにものなんでしょうか。
高校生のころ、知り合いの大人たちは口々に「いいね。若いって青春だね。」と言い懐かしそうに自分の学生時代を語りました。けれど、アラサーと呼ばれる年齢になった今、今までの様々な時代を思い返してみても「ああ、あれが青春だった。」などと思い出せるものが何一つないのです。懐かしいなと思えたとしても、明確に「これがわたしの青春です!」とは言えないのです。困った。今のわたしが若者ではないことだけは確かなのに。
存在の不確かなものに名前を付ける。
青春もそのひとつではないのかと思います。不確かだからこそ、人の数だけそれぞれ色かたちの違う青春があるのだと。青い春である必要なんてなくって、ピンクでも白でも黒でもフローラルな香りでもドブ臭くても辛くても背油マシマシ豚骨ラーメン並みにギトギトでも、いつかどこかで、人生が終わる走馬灯の瞬間にでも「やべぇ、あれ青春だったわ!」と思えれば安泰だなと思います。こうやって死の瞬間にやることを増やし、死をちょっと楽し気な人生最大のイベントにしておくことによって毎日を生きていくことが出来ています。
不確かなもの、現在理解できないものを解けなかった答案用紙さながら空欄のまま、これ本当なのかな、実体験なのかな、わからないな、なにものなのかな。そういった楽しみがまだこの先にあることが楽しい。
せっかく二月十四日の更新なのだから、バレンタインの詩を考えればよかったと少し後悔しつつも、またそれは来年の楽しみに入れておこうと思います。
なにものかわからない病気が流行っています。
体調にはくれぐれもお気をつけて。
休日にはゆっくり朝寝坊をしておいしいものを食べましょう。