逗子の小さな神社に2500人が集まったのは、昨年の11月26日のこと。
抜けるような青空の下で、境内には珈琲の香りが漂い、陽だまりのような音楽が響いている。
これは、「逗子葉山 海街珈琲祭」の風景。
アンドサタデーが主催した、初めての大規模イベントである。
地元だけではなく東京や横浜からたくさんの人が集まり、普段人が多い訳ではない街に賑わいをつくった。逗子葉山の11の珈琲店は、どのお店も行列が途絶えない大盛況ぶり。
陽の光に照らされたみんなの顔は穏やかで、優しそうな顔をしている。
逗子葉山が誇る作家さんにも集まっていただき、この街の持つ他のどこにもない空気感を、この場所で表現した。
企画からデザイン、プロモーションまでを全て自分たちで手掛けたこの珈琲祭は、編集社がつくる珈琲祭として多くの想いを込めた。一つ一つの珈琲店のストーリーを取材し、丁寧に丁寧に伝えていった。
そして迎えたあの日、あの場所で見た光景は一生忘れられない。
それは言葉に出来ないほど、多幸感に溢れる景色だった。
決してお金が儲かる訳でもない珈琲店が元気な街は、豊かな街だと思う。暮らす街の中に誰しもが立ち帰れる場所があって、そこで思い思いに過ごす心や時間の余白がある街。
自分のお気に入りの珈琲店があって、忙しい毎日の中で珈琲を飲みに一息つくため立ち寄ることが、生活のルーティンとなる。
そんなコーヒーカルチャーをこの街につくるために企画したのが、この「逗子葉山 海街珈琲祭」。
コーヒーフェスという一過性のものをつくって終わりでは無く、この街にカルチャーをつくる。
例えばシアトルでは、1分でも歩けばカフェに当たるほど街にコーヒーの香りが漂い、曇りが多い街で人と集まるコミュニティの場となっている。
例えばメルボルンでは、暮らしの中でカフェに立ち寄り、言葉を交わして自分好みのコーヒーを飲むことが日常になっている。
その国その土地で形は違えど、共通して暮らしの中に珈琲が寄り添う、普遍的な文化。
そういう意味でも、海街珈琲祭の当日では無くて、終わった後の日常の方が、ずっと大切で。
実際に、「海街珈琲祭でお店のことを知って来ました」とか、「日常の中でカフェに通う習慣ができました」とか、珈琲祭のあとに各珈琲店を訪れた人たちから声をいただくことができた。
海街珈琲祭があるこの街に暮らしていてよかった、とまで言っていただけた。
あの日を境に、少しずつだけど街にコーヒーカルチャーが芽生えていることを感じている。
この海街珈琲祭は100年続けていくことを掲げている。カルチャーを掲げる以上、当然のことである。
しばらくはたくさんの人を集めることが好まれないような時代が続くかもしれない。でも間違いなく、この経験を経て、人は人が集まる場の必要性を再認識しているはず。
人の集まる場はコロナで窮地を迎えているが、それと同時に改めてその価値を大きくしている。
海街珈琲祭は街の編集社であるアンドサタデーにとっても、無くてはならない街の編集のひとつの形。
あの日の景色をまたこの街に描くために、立ち止まらずに歩んでいきたい。