貝殻に耳をあてると、海の音がする。
母はそういうことを平気で言う人だった。
友だちと喧嘩をして泣いて帰った日も、図工の時間にじょうずに描けなかった日も、ポートボールで補欠になったときも、母は海で拾ったタカラガイやクモガイをわたしの耳にくっつけた。そうすると周りの音はもやがかかったようになって、さあさあ、とか、ごうごう、とか、プールに潜ったときのようなくぐもった音がする。
貝によって音がちがうのはなぜかと聞けば、故郷の海がちがうから、とこれまた眉と唇を得意げに吊り上げた、「へいちゃら」な顔をして言うのだ。お陰でうちに遊びに来たクラスメイトに、タカラガイが誘拐されたりした(ちゃんと返してもらった)。
こんなこともあった。
ある日、母は自分の、わたしの顔くらいの大きさもあるうずまき貝を拾ってきて、これはアンモナイトよ、と言った。それはぜったいにうそだ、とおもったけれど、母はもちろん「へいちゃら」な顔だった。
それでしかたなく、わたしは母がいない隙を狙って、母の本棚の恐竜図鑑をこっそり読んだ。おかしな話だけれど、わたしは母の言葉を疑うとき、彼女の本棚で真偽を確かめることにしていた。
曰く、アンモナイトは確かに絶滅している──どこかから飛んできた小惑星がぶつかったらしい。さぞびっくりしたことだろう──けれど、まだまだ世界のどこかで化石になって眠っているらしい。母はどこかでこのアンモナイトを発見して、土を洗い流してやり、見つからないよう、そうっと持って帰ってきたのかもしれない。もし誰かに知られたら、博物館とか、もしかしたら水族館とか──なんと言っても海の生き物なのだ──に持ち去られて、「さわらないでください」とか、「おてをふれないでください」とか、「しゃしんはとらないでください」とか貼られて、孤独な日々を送るのかもしれない。
それならうちにいた方が安全だし、時々こうして耳をあててもらえるはずだ。とにかくわたしは、秘密にしておくことにした。
母のアンモナイトからは、ひゅうひゅうと冬の海の音がした。きっと氷河期を乗り越えてきたにちがいない。それからうんと時間が経って、アンモナイトはいつの間にかいなくなった。
アンモナイトの話はこれでおしまいだ。
思い出は美化される、というけれど、子どものころの記憶はそうはならないと思っている。いいことも、悪いことも、そのままの形で残っている。じっさい大人になると、都合というやっかいなものがあって、それによってドラマチックになったり、答え合わせに躍起になったり、結末が変わって(または用意されて)いたりする。
その点、子どものころの思い出の多くは、「さわらないでください」「おてをふれないでください」の張り紙とともに、孤独な化石になる。
あるいはベランダの隅で。あるいは庭の植木鉢の中で。あるいは箪笥の奥で。あるいは公園の砂場のバケツの底で。あるいは小さくなった服のポケットの内側で。あるいは一枚のフィルム写真の光で。折に触れて、そのままの姿で。
ただし、そういう化石ができあがるまでには時間がかかる。それこそ、大人になるくらいの。
ドラマチックにしたり、答え合わせなんかを始めたりしないよう、「おてをふれないで」眺められる大人だけが、化石たちに出会える。
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はじめまして、青柳 ハルコです。
今日から2ヶ月、ここアパートメントで文章を書くことになりました。「化石になったもの」をテーマに毎週日曜日に書きます。
あなたもわたしも、やがて化石になる。