「出来事」という言葉がずっと気になっています。たぶん2012年ぐらいから気になっています。世間で起こる(いろいろの)こと。出来事の連続で今日1日が終わる。私の人生も、この社会も出来事の連続でこれまで続いてきたんだな、明日もいろいろな出来事が起きるんだろうなと思います。まあでももうちょっとこの言葉について深く考えてみたいと思っていたのです。出来事はローマ字で書くとdekigotoですが、これが英語だとして接頭語のdeをとってみるとどんな意味になるんだろう?とか。そういうことじゃないか。。
目的と結果が異なること。これは世の中を見渡すといくらでも見つけられそうです。何かの状態を目指して誰かが行動を起こして、目指していた状態になったり、ならなかったり。目指していた状態になっていたとしても、なっていなかったとしても、別のことが起きている場合がほとんどだと思います。う〜ん、具体的なことで言うとなんでしょうね。受験勉強を頑張って晴れて大学生になった。勉強中に聞いていた深夜ラジオに詳しくなったとか? 勉強がんばったけど大学生になれなかった。でも塾で別の学校の友達ができたとか? 適切かどうかは分かりませんが。
私の場合だと主に町の中で見つけることが多いです。
流行りのリノベーションだってそうですよね。住宅として建てた建物が50年経って空き家になって、若者が入居してカフェになった、とか。まあ住宅として建てた時点では目的と結果は一致しているんですけど、人と違って家はそのままの状態でいられますからね。人の時間の流れと違うから、時間が経つと必然的に当初の目的とずれて来てしまうのが町の風景なのだと思います。
目的と結果がずれることが僕はとても「出来事」っぽいなと考えています。必然的にしろ偶発的にしろ、起きてしまったこと。閉じた可能性(=結果)と開けた可能性(=新たな目的)。そんな印象を出来事という言葉に持っています。
橋は、人や車が川・海・谷を渡れるように架けるものです。でも橋が架かるともっと色んなことができるようになります。橋の上から釣りをしている人を見ると、釣りをできるようにするために橋を架けたのだなと思うこともできますよね。ってその考えは無茶ですが、現在から近しい過去を読み解こうとすれば、その立ち位置や理解によっていくらでも目的と結果のずれを見つけることができるのではないでしょうか。
人の振る舞いと町の風景の変遷、その時差は常にあるから目的と結果のずれが大量に生まれている。そのずれがあるからこそ町があって時間がある。「出来事の風景」の中で私たちは楽しく暮らしている。この当番ノートではこんなことについて考えたり、実践したりしてみようと思います。
私は宮城県の気仙沼市で2015年からまちづくり・建築の仕事をしています。記事につけている写真は気仙沼の中心市街地である三日町というところで見つけた椅子です。最近見つけました。たぶん閉業してしまったお茶屋さんかなにかの軒先です。おばあちゃんが椅子に座って、この店舗兼住宅であるお茶屋さんの住人のおばあちゃんと語らっているのを見たことがあります。椅子はお店で使っていた椅子ですね。中を覗くと同じデザインの椅子がいくつかありました。