マニキュアを衝動買いしてしまった。ターメリックとシソ、という色を。ターメリックは山吹色を少し明るくしたような色。シソは煉瓦色、というには暗く、やや紫がかった茶色という風情だ。
この、赤茶色というか赤褐色というか、赤と茶色の真ん中くらいの色、気付けばマニキュアにも口紅にもこの色が多い。好きで集めているというわけではなく、自然と集まってきている。
煉瓦色はモディリアーニを連想させる。最近横浜美術館で見たからよけいにそう思う。アメデオ・モディリアーニ(1884/7/12~1920/1/24)は20世紀初頭「エコール・ド・パリ」にくくられる画家だ。瞳のない目。無表情というよりはもの問いたげな表情。異様に縦長で微妙な角度に浅く傾ぐ顔や体。彼の作品にはどこか浮遊感がある。人物、それも親しい人を描いているはずなのに、幽霊というにはいいすぎだけれど現実離れしていて、揺れているような、吹けば飛んでいってしまうような、そんな感じが否めない。
彼が、赤茶色をよく使う。赤褐色、煉瓦色、赤銅色のグラデーションで背景や衣服を塗る。この赤茶色は土や木、レンガを想像させ、動かないもの、固いものをイメージさせる。
実在感のない人物像と、どっしり構えた色のちぐはぐさは、人物像の存在感をより薄くしている反面、色で人物をキャンパスにつなぎとめているようにも思える。
でも、横浜美術館で見たモディリアーニ「カリティアード」は違った。むしろ、大地を思わせる赤茶色が効を奏していた。
カリティアードは、ギリシャ時代の神殿建築で見られる女性の像をした柱のこと。モディリアーニが彫刻に没頭していた時期、よくこのカリティアードを題材にラフな絵を描いていた。本作もその一枚で、直立し、神殿の屋根を支える腕、重さを受け止める太ももから下肢のラインはふくよかで力強い。相変わらず瞳はないものの、真っ黒に塗られた眼は正面をひたっと見据えている。そこに頼りなさげな風情はなく、土偶のような造形だ。やはり赤茶色が使われているけれど、この色が持つ「動かないもの」という印象がピタリとはまり、カリティアードの実体感を増している。
中学校の美術の教科書で見て以来、どこか不安定でつかみどころのない絵を描く画家だと思っていたけれど、初めて色と対象がぴったり合った作品を見た。なんだ、描けるんじゃん、とか大作家に対して不遜なことを思いつつ。
モディリアーニのことをつらつら考えていたら、なんとなく煉瓦色が集まってくる理由も見えてきた気がした。それは、また次回。