「みて。サボテン買ってん」
ある日の夜中、急にわたしの部屋の扉が開けるなり、そう言って上機嫌な彼女はビニール袋に入ったサボテンを見せてきた。手のひらに乗っかるサイズの深緑の球がタンポポの綿毛のような棘を纏い、そこに優しいピンク色の花をポンポンと髪飾りのようにつけていて、それは少し羨ましく思うほどにかわいかった。そしてそんなサボテンを無邪気に自慢してくる彼女が愛おしくてたまらなかった。
彼女はよく自分の周りにいる好きな人たちの好きだと思った瞬間の話をしてくれる。まるで「太陽って何でできてるの」「月の形が変わるのはなんで」「お花はどうしてきれいな色ばかりなの?」と聞く生まれて間もない子供のように、キラキラと出会った人々のことを語るのだ。好奇心のままに人に近づき、輪を広げ、なんの疑いもせず惹かれたままに好きになる。美しいものをそのままの姿で美しいと感じ取ることができる。そんな彼女自身が美しいと、そしてとても脆い存在だと思いながら私は夜な夜な話を聞いていた。
きっと彼女は本当は、日向で眠る犬、青く美しい湖を漂うクラゲ、何も傷つけるものがいない広い草原に咲く花、風に乗って流れてゆく雲で、悲しみや怒りから全て解放されたような姿をしているのだと思う。人間という生き物への好奇心が彼女を人の形に変え、人に紛れて生きている。だから時々、ものすごく俯瞰したところから私たちのことをみているような瞬間がある。
そんな彼女が歌う歌は眠れない夜のホットミルクのように温かく、疲れている時に飲むお味噌汁のように全身に染み渡る。その圧倒的な優しさに触れた時、記憶にないほど遠いいつかにもらった愛情を思い出した気がして、自然と涙がこぼれでる。
「君の少しダメなところ、僕ならどうも思わないし、君の少し変なところ、僕ならちっとも気にしないよ」
この言葉を受け取ったたくさんの人が、これまで抱えていたことから解放され、ホッと安心して眠りにつくことができただろう。
私は今、この言葉を、あなたに届けたい。
考えて思い悩んで泣きながら辛い思いを伝えることを一部の人は”メンヘラ”なんて言葉で片付けたりする。
そんな言葉でしかその人達を解釈できない人は、毛布のピンク色、保健室で流れるオルゴールの音色の優しさにただただ涙が出たり、無意識な無関心に傷ついて夜な夜な布団の中で泣いてしまうことなんてつゆ知らずに生きてきたのだろう。そういう存在が彼女のような人の居場所を失くしてゆく。どこまでも寄り添えることができる優しさを殺してゆく。 この世界に居場所がなくて息が苦しくなり、どうしようもなく床に座り込んだ彼女を多くの人が知らぬ顔して通り過ぎて行く。でもきっとみんな自分を守っているだけだ。みんな自分一人を守るので手一杯なのだ。本当の意味でだれも自分のことを救ってなどくれないと知っているからやりたくないことをやり、学んで知識をつけどうにか立ち上がり続ける。そうじゃないとこの世界では生きていけないことを、いつのまにか私たちは理解してしまったから。
でもそれに抗うように、彼女は生きる。ただ好きな人たちをまっすぐ好きでいたいだけなのに、楽しい時に笑い合って、辛い時に支え合いたいだけなのに、どうしてこんなに傷つかなければならないのだろう。なんで自分の頭で正しいかどうかも考えてないルールに、正されようとされなくちゃならないのだろう。ずっとわからないから、彼女は歌い続けるし、そんな彼女の歌が、同じように今の世の中を“ちゃんと”生きていくことに苦しむ人の心を救う。
その納得できない気持ちも、尽きない好奇心も、湧き出る優しさも、そのままの形で持ち続けてほしい。絶望から抜け出して、生きづらすぎるこの世界に少しでも居心地のいい場所を見つけ出して欲しい。でもそれができるのは彼女自身でしかないから、私は彼女が立ち上がる意味を見失った時、またもう少し生きようと思えるまで、側で存在を肯定し続けながら手を握り続ける。
聞こえる寝息、刻む鼻歌、気まぐれのギターの音色、酔って適当に陽気に歌った憂歌団の「嫌んなった」は最高すぎてこっそり録音して凹んだ帰り道に聞いてるよ。漂うピースの煙、その香りを彼女はバニラの匂いよと教えてくれた。寒さが和らいだお昼過ぎにぬくぬくと起きて来てはうどんをチンして卵を溶く音の尊さ、花を買って帰りたくなる気持ち。全部今の生活で彼女がくれたものだ。
私はあの時サボテンをみせにきた彼女の気持ちを、ずっとずっと守り続けたい。