私が3歳から住んでいた小平という場所は、東京だけど緑が豊かで、川が流れていて、空気の匂いは湿っていて、朝は鳥が鳴き、冬になると都心に比べて-3度も気温が下がり、夜になると車通りも人通りもなくなって道路の真ん中を平気で歩いて帰ることができた。星がよく見えて、公園のグラウンドの真ん中で夜空を見ていると、地球上でたった一人になった気分になるほど静かな街だった。
ここには眠った夜があった。私はよくこっそり家を抜け出して、音楽を大音量で流しながら友達に会いに行った。そして花火をしたり、シャボン玉をしたり、アイスを買いに出かけたり、そのままコンビニの前で話をして夜が明けてしまったりする日々を過ごしていた。そんな日の帰り道は、この夜のときめきを全て独り占めしたかのように心が満たされた。
今私が住んでいる街の夜は眠らない。工事中の光が騒がしく点滅し、救急車とパトカーのサイレンの音が鳴り響く。商店街はキャッチのお兄さんと寒そうな格好のお姉さんが両端に並び、駅前ではギターを持った人が歌を歌っている。気候がいいとお酒を片手に持った大勢の若者が、コンクリートの上を自分の部屋の床のように座り込んだり寝転んだりしていた。きっといつかこの時間のことを「あの頃は若かったな~」なんて言って思い返すのだろう。皆夢についてや、好きなものと嫌いなものについて夢中に語っていた。この世の理不尽と精一杯戦っていて、今に限りがあることを知りながらその限りある時を存分に生きている感じがした。その姿は眩しく、愛おしくて、私はこの街の夜のこともすっかり好きになっていた。
彼等は夜になると魚に姿を変え、街はどこまでも続く海となる。ここでなら本来の自分の姿でいることができ、思い切り呼吸ができて、自由に泳ぐことができるようだった。
わたしは部屋の窓から、そんな彼等の姿を眺めていた。そして彼等は誰も教えてくれなかった、みんな本当は奥底で知っていたけど内緒にしている秘密話を教えてくれた。彼等はその事に、とっくに昔に気づいていたようだった。これまでこれが正しいと教えられて来た世界がくるっとひっくりがえってしまった瞬間だった。
何も知らなかった私は嫉妬した。その自由さと純粋無垢さを保ったまま、どうしてこれまでこんな世の中でで生きてこれたのかわからなかったけど、あなたは本当に美しかった。ひどく脆いのに、誰も敵わないほど強かった。未来に今のあなたより正しい存在なんていないんじゃないかと思った。
私も彼等と一緒に泳ぎたかった。でももう私は魚に姿を変える方法も、自由に泳ぐ方法もわからなくなってしまっていた。
だから祈った。そのままでいい そのままでいいよ どうかそのままでいてほしい、と。
他人が押し付けて来る正しさになんか惑わされないで。進み続けて。その姿を、私は見ていたいから。湧き上がる怒りに誇りを、諦めない気持ちを美しいと、溢れる言葉が本物なのだと信じて。
朝になると全て夢だったかのように若者は消え、お店のオープン準備と、出勤する人が急ぎ歩きで駅に向かってゆく。でもその夜が夢じゃなかった証かのように所々に吐瀉物が撒き散らされていて、それを小鳥がつついていた。
今日も私はアルバイトに出かける。
帰り道。深夜0時を回った頃のコンビニ。インスタントのワンタンメンを片手に買うかまよっている作業着を着たおじちゃんの姿。一度商品を置き、お財布の中身を確認する。迷う素振りを見せた後、レジに並んでホットコーヒーだけを頼んだ。
お腹、空いてたんだろうな。何度もおじちゃんの姿を頭の中で反復させる。
通りのアパートの窓から顔を出して、女の子がタバコを吸っている。その下を、クリーム色の猫がたたたと横切った。
通り抜ける風が気持ちいい。今夜もコインランドリーの前で、3人組が座ってお酒を飲んでいる。
私はいつものようにコンビニ袋をぶら下げてその前を通り過ぎ、少し月を見上げて帰宅する。