ここのところ、なんだかずっと居心地が悪い。居心地が悪くって、ずっと寂しくて、ずっと帰る場所を探しているような気がしている。
私は自分が居心地が悪い場所にいたことに、居心地がいい場所に行ってからじゃないと気づけない。嫌だったのかとか、無理していたかどうかが、その場を離れて見ないとわからない。ずっと馴染めなさをどこかで感じながら、馴染めないのを自分の実力不足だと思い込んでしまう癖がある。きっと、そもそも合わない場所って誰にだってあるのに、私はそれをそう割り切ることがなかなかできない。
中学生の頃から周りにいる子たちは、誰といるのが楽しいのかよりも「あのこといたら周りにこう思ってもらえる」ばかり気にしていた。私が当時いた女子グループから仲間はずれにされた子と仲良くしていた時、付き合ってた男の子に「あいつといたらあやちゃんも仲間はずれにされちゃうよ」と言われ、あ、この人は今、仲間はずれの子と一緒にいる子と付き合ってると自分が思われるのを嫌がってるんだ、と思った。そういう人間が支配している社会の中で、居心地の悪さに気づかないふりしてうまく生きていこうと努力し続けた中高6年間。今思えばそんなこと全くしなくてよかったし、そんなことしなければこの先も大切だと思える友人に出会えたかもしれないのに、結果今でも会いたいと思う中高時代の同級生は2、3人ほどしかいない。
その頃の自分が窮屈だったということに気づいたのは大学に入ってからだった。大学に入ってから出会った友人たちは、自分が傷ついたり嫌な気持ちになった時に、しっかりと怒ることができる人だった。自分の価値を自分でわかり、その上で人との関係を作っていく。自分が側にいたい人を自分の感覚で選び、妥協はしない。どういう才能があって、どういう良さがあるのか互いに認め合えた時に、居心地のいい場所が生まれていた。
その居心地のいい場所から離れた今の私は、ただ認めてもらえていないことに寂しさを感じ、知らない人たちの愛のない言葉に傷つき、虚無になる帰り道を歩き続けている。我慢ができたら偉いねと褒められてきたから、そうであることにすっかり違和感を持たなくなってしまっていたけど、本当は認めて欲しくて、居場所が欲しくてたまらないのだ。自分で自分のこと認められたらきっとこんなに悲しんだりしないのに、私は今、超弱くて寂しい人間だ。
話は少し変わるけど、先月みた「花束みたいな恋をした」も弱く寂しい人達の話だと思った。あの中身がなくつらつらとあげられていった固有名詞たちは彼らの鎧だったんじゃないだろうか。たくさんの知識を取り入れて、ありたい自分を作り上げてきた人たちなんじゃないだろうか。鎧の種類はそれぞれ違えど多くの人がきっとそうやって生きている。そして誰かのために未来を決めるのは簡単で、脆かった彼らは自分自身よりも目の前にいた相手と生きるための道をえらんだ。それが招いた結果が見事にリアルに描かれていたと思う。
この映画の感想で、映画の2人と比較してあたしはこうだったよと自分の人生について語る人を見かけた。人間には、生き方のコツを早めに気づき生きていけている人と、どうしても不器用にしか生きていけない人がいると思っている。不器用な私たちは側にいる自由な人の姿をみて、そうなれない自分をだめだと思ってしまう。自分の人生がひどくつまらなくて惨めなもののような感じがしてたまらなく虚しくなる。そんなあなたの人生もダメじゃないよとは誰も言い切れないし、羨ましいのが事実だ。でもわたしたちにも持ってるものがあると割り切るしかないと思ってる。人生2週目みたいな人もいるけどその人達みたいに1週目のあたしたちが生きれるわけない。1週目は1週目なりに生きているんだ。どうか傷つけないでほしい。これでもこっちは必死なんだよと、あの感想を書いた人に伝えたかった。トラックの荷物を海に投げた彼のことが忘れられない。私は彼に寄り添えるような人間でありたい。
まだまだ自分で自分を認められるようになるまでには時間もかかるし努力が必要だけど、彷徨わずに生きていけるようになりたい。
かつて居心地のよかった場所にいつだって帰れるように、また別の居心地のいい場所だって見つけられるように。