ボディポジティブやルッキズムに関心が高い人と関わっていることが多い。一方、昨今の私はそんな美徳をかなぐり捨てていて、太っていておしゃれではない自分を否定も肯定もできないという曖昧な立場にいる。
本当は、ボディラインを強調したり鎖骨とかカリっとした膝小僧とか出したりしたい。しかし今の私は贅肉が多すぎる体型で、チープでカジュアルな服ばかり着ている反動と、まだ若い女枠で居続けたいというあがきがもたらしたこの価値感の転換に立ち向かうにはいささか心細い。私自身は正直、ファストファッションも巨体も好みではなく、全く反ルッキズムの時流に乗れない。
つるぴか脱毛済みの肌でいろと社会から強要されたり、痩せていて若い女が好ましいとされるルッキズムが蔓延る世の中がいいと言っているわけではない。そのような見た目差別は無くなってしかるべきだし、容姿で判断されるのはごめんだときっぱり言える自分でありたいとは思っている。だがしかし、私の姿勢はポジティブにボディポジティブを選び取っているわけではない。ただの言い訳として多様性を利用しているだけで、本音を言えば若くて細いまま綺麗な服を着てチヤホヤされ続けていたかったし、そういう自分が好きだった。
今の私にとって装飾は自己表現ではない。裸だと寒いから着ているもので、複数ある選択肢からセレクトしたベストチョイスなわけでは全くない。ファッション誌でマストバイとされているアイテムはだいたい私の経済状況では手の届かない品物だ。スキンケアやダイエットといった土台を整えるような美容だって、綺麗になあれという願いを込めてお手入れしているというよりは、これ以上醜くなりたくないというネガティブな気持ちからやっている時の方が多い気がする。
おしゃれで大事なのはお金ではなく工夫であると大作家宇野千代様が仰っていたが、私はそうは思わない。美には金という余裕が必要だ。社会的な記号である服は、自分がどの階層に属しているのかを実感させられるもので、肌には資金力と丁寧な繰り返しの有無が現れる。今のプチプラコスメは優秀なので、化粧はセンスと知識があれば練習でなんとかなるかもしれないが、それだってフルメイクができるものを揃えると一万は軽く飛ぶ。そして美の要であるスキンケアの丁寧な繰り返しができるかどうかには、精神状況が如実に現れる。
おしゃれにはお金よりも遊び心や工夫が必要だ。それはその通りだが、その工夫は余裕から生まれる。そして余裕はお金から生まれる。この事実から目を逸らさないでいただきたいと切に思ってしまうのは、私の心そのものが貧乏にやられているからだろう。
このような性根が美しさとかけ離れていることも自覚している。いくら金がないと嘆いたところで体重が減ってはくれないし、肌が潤いを増すこともなく、マストバイ服が手に入るわけではない。手中のものでなんとかやっていくことが工夫なのだと、宇野千代様に叱られるかもしれない。でも私はまだ、工夫という開き直りができるほど前向きになれない。ただ努力が面倒で、理想に近づこうと現実を見つめるよりも拗ねている方が楽だというぶーたれた自分から抜け出し、ちょうどいいサイズの美を手に入れるにはもう少し時間がかかりそうだ。