生きているだけで尊いという絵空事をこの身で裏切りたいと強く思う。そこにいるだけでいいよという優しいメッセージは私にとって資本主義、ひいては社会からの解雇通告のようなものだ。リストラされたけれどお情けで生かされている現状に一矢報いたい。生きてるだけで尊いのはわかっている。でも存在しているだけで自分を認められるほど、私は強くなかった。
去年の連載のテーマは、日常エッセイを通じて「生活保護でも案外生きられた」体験を伝えることだった。リアルな生活を綴って少しでも受給へのハードルを下げたいと思っていた。ゆえに、意識して明るく書いた節が大いにある。
しかしあれから一年が経ち、生活保護という制度自体に疑念を抱くようになっている。「案外生きられるだけでその後の展望はなかなか厳しい」自分の現状をそのまま書くことが生活保護を身近に感じてもらう以上の問題提起をもたらすことに期待して、まずは私の停滞した日常をここに記す。
コンビニ弁当が転がっているゴミ部屋で、やわらかなベージュトーンにターコイズブルーが差し色で映えるようなおしゃれVlogを配信しているYouTubeチャンネルを見ていた。焦がれるように他人の生活を自分の理想として掲げながらも、浮世離れしたハイセンスと登録者数に胸がムカムカして、コメント欄に嫌味を書きそうになるのを抑える。その人が強く抱いているであろう日常に手間ひまかける愛情が眩しくて、憧れよりも嫉妬が先に立つ。
毎日がサバイブ状態で炊飯器のスイッチすら満足に押せない時に、ガラスの鍋でご飯を炊くモーニングルーティーン動画を師範としていたのはもはや自傷に近い行為だったと今なら思う。私はうつ状態がひどくなると、拗ねる。私はこんなに大変なんだから幸せになんてなってやるもんかと、あてつけのようにセルフネグレクト寸前になる。
先に挙げたようなおしゃれVlogにいろんなものをブレス機で潰しまくるだけの無意味な動画やメントスコーラまで、YouTubeを制覇しながら自分で自分に復讐するように何もしない日々を重ね、生きてるのか死んでるのかわからない曖昧な間伸びした人生を生きていた。
ここまで書いてきて、自分でもいやになるほどの停滞ぶりにうんざりする。しかし、それはいわばアクセルとブレーキを同時に踏んでいるから精神が膠着状態になっているだけだとわかる。被害者となり全てを社会のせいにして投げ出したい気持ちと、自分で自分を引き受けて責任を持つ、ある意味自己責任を受け入れる姿勢の間で揺らいでいたのだ。どうやって淀みから抜け出したのか、次回は話したい。