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2F/当番ノート

シーシャ解禁の儀と反応の話

当番ノート 第61期

チルな姿をマッチングアプリで設定してるやつはろくでもない。これは経験から形成された偏見だが、映えを狙ってSNSに投稿こそしないもののシーシャに行くのはめちゃくちゃ好きだ。いわゆる水タバコというもので、コロナ前は友人が働く専門店に結構な頻度で通っていた。

コロナ禍に突入してからは、感染者数を見ながらペースを減らし、おそるおそる行ったり諦めたりしていた。シーシャ屋ではマスクをしている人はいない。当たり前だが、タバコはマスクなどしていたら吸えない。店員さんがチェックしてくれる時なんて同じマウスピースは使わないものの、ボトルに息を吹き込んで煙を調整する。店内にいる誰かがコロナにかかっていたらかなり危ないと思われるので、このご時世にシーシャに行くやつはなかなかの煙ジャンキーなのだろう。

シーシャはなんとなくそこにいるだけでリラックスできるのがいいところで、ほけほけしていると時間が過ぎていく。そのまったりとしたダウナー感が好きで、大きな気分転換の手段を失くして残念に思っていた。しかし、もうゼロコロナという未来が見えそうもない昨今、いつまで我慢し続ければいいのかとしびれを切らしてしまい、己にシーシャを解禁することになった。

この2年間、行動を制限されることが増え、その度に自粛したりしなかったりを繰り返していた。つくづく思うのが、私には社会に対して信念が何もないということだ。最初の緊急事態宣言では人並みに怯え、ちゃんと自粛していた。家に閉じこもる日が増えると、だんだんメンタルがやられてきて、コロナにかかるよりも精神状態が悪化するリスクを考えて自粛しなくなった。そんな中でも感染者が増えるとまた流されるようにビビり、外に出なくなったりした。

なんというか、その時の情勢に対して反応しているだけなのだ。確固たる意志を持っているわけではなく、ただ多くの人々が取る行動に自分を合わせている。今回の解禁の儀も、世間の中弛みとまんぼうの停止に伴って欲望が増大したゆえのことだし、熟慮の上というよりは感情に対応しただけだ。なんだかんだ世間の空気を注視しながら行動しているという点に関しては、いやな意味で常識人らしさを感じる。

人は良くも悪くも慣れてしまう生き物で、敵がいるのはいつも日常の中だ。本当に注視しなければならないのは世間の反応ではなく、自分から生まれる意志や考えなのだろうと反省している。

滝薫

滝薫

ライター兼福祉の仕事がしたい人。アロマと料理と編み物が趣味というナチュラル丁寧加減ですが、本人は結構辛口です。

Reviewed by
スズキコトハ

世間の反応を受けた自分の状態。ともすれば世間に従っているのだから悪いことはしていない、むしろ「常識」を弁えた良識的な人間であるとも言える。しかし昨今、人に合わせていると何もできないし、かと言って好きに振舞っていたら後ろ指をさされてしまう。不都合極まりないことこの上ない。自粛は身を守ることと世間体を守ること、ガッチリ結びついてしまった。でも人々を死に至らしめることもある立派なウイルスであることもたしかで、そうなるとやはり世間体より自衛に傾くのが人間というものではなかろうか。マスクをしながら外に出ている人々もそのあたりで揺れているのではと思うと、いやはや弱みを突かれたものだと思ってしまう。

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