18歳のわたしへ。
とうとう友だちと喧嘩をしました。
12月、各駅停車。忘年会ということにして、なかなか目的地にたどり着かない電車を当然のごとく選んで市内へ行き、鉄板焼きを食べに行きました。心を許すまでは分厚めな壁をつくりがちなわたしは、待ち合わせ場所で誰かに会うまで、少し緊張していました。合流してからは、その日は普段は話さないような人とも一緒になってその場所まで向かいました。片手で収まりきらない人数で集まることがほとんどないため、合流して歩き始めてからも、心はざわざわしていました。
福祉を勉強する大学に入ったからには最低限、その分野の人物らしくやるべきことはこなしつつも、結局、全然自分がその分野で働いている想像がつかないままに、とうとう3年生になっていました。とりあえず欲張って二つの国家資格取得を目指して、なされるがままに与えられたカリキュラムをこなし、放課後は技術的なことの練習をしていました。こなしてもこなしても次々と、グループで準備しての発表や演習があり、加えて個々に、実技テストやペーパーテストがありました。やっと大きなテストが終わったかと思えば長期休みで、実習のことを考えなくてはいけない。無限ループにも思える、地獄のような時間でした。
他の人が丁寧に、時間をつかって考察し、完成させてくるものの発表を聞く。そのとき放たれる言葉や伝わる熱量に比べて、とにかく自分がやらされている感のまま、だましだましにやって、発表し続けているのが苦痛でした。なにに自分は時間を費やしているのだろうか?ただただ、課題をしっかりやりきるという使命感だけで完成させている自分自身と、目の前の課題を踏まえてその奥にいる人を想像して、時間をかけて検討し、仕上げてくる人たちの発表を聞いて、わたしは本当に、一体なにをしているのだろうという気持ちになっていました。
これからどうしたらいいのか分からない。この焦る気持ちを誰にどう伝えたらいいのか分からないわたしがいました。その時、唯一頼りにしたものは、ただただ嬉しかったことや、すきだと思う瞬間を重ねるために、ごく限られた時間、この地から離れて、外に出ることだけでした。
同じ学科のコースの人たちの中でも、差はあれども、わたしと同じような動機で「とりあえず」ダブルライセンス取得を目指している人たちもいました。上手いこと課題をこなし、同じようなストレスをかき消すかのように、今までよりも頻繁にカラオケに繰り出しては、発散させていました。3年目ということと、長時間学校で同じだけの時間を拘束されていたので、互いにどんな人なのか、いいところや悪いところがどこなのか、わかりつつありました。もう安心しきって、思ったことは言い、自由に振る舞っていたように思います。
お酒をみんなで飲む楽しさも覚えはじめていました。そこでの自分の振る舞い方を、時たま思い出したかのように気にしつつも、飲み会というものに慣れてきていて、でも自分の限界はまだ知らない時期でした。その日もいつものような感じで、無くならないストレスも、逃してはくれない不安も全て飲み込んでしまおうと、ガンガンとアルコールを入れていきました。身近にいたはずの友だちが、いつの間にか自分には共感が出来なくなってしまった言葉で、弾むように語っているその様子を直視はしないが、意識はしながら、一人で最近のことを思い返していました。そうして心の底にチクチクと降り積もっていく何かが、膨れて、次第にあふれ出して、次第に止まらなくなってしまったことがありました。
その友だちは、アパートまで帰る道中が同じ人でした。数人で帰る時は楽しく話せていましたが、最初の頃は二人で帰る時は全然話が浮かばず、弾まずで、早く家につかんかなと思っていたこともありました。数人で一緒に、たくさんの時間を過ごす中で、途中から、なんとなくその人の本心がわかるようになり、同じ感覚の部分を知り、わたしの面倒くさい部分も面白く受け止めてくれるような人でした。
その人は、一人でも夢中になって過ごせるものごとをたくさんもっていた。インディーズ系の音楽をたくさん知っていて、絵も描けるし、手芸もできるし、料理もできるし、いろんな場所を知っていて、一人でどこでも行けるし、服装もその人だから着こなせている感じで、髪型から持っているもの、何から何までその人にしっくり似合っていた。発想や感覚がわたしにはないものばかりで、本当に、一人でもとても楽しく時間を使って過ごしていた。わたしは、その友だちが羨ましくてたまらなかった。プラ板やカラータイツ、音楽、ひとり旅などと、いろんなことを教えてもらったり、真似したりしながら、なんとなく波長が合うような気になっていって、一緒に授業を受けることも増えていった。
そんな中で、遠くに行ってしまったような、共有できなくなってしまった感覚が積もっていき、不満が溢れだしてきてしまった。そこには不安も混ざっている。お酒も入って一言、不満を言い出したら止まらなくなって、途中からその場の空気が悪くなっているのにも気がつきながら、止まり方が分からなくなってしまった。
数日経ってから仲直りしたものの、なんとなくわだかまりは解けずにいました。忘年会という仮の名前がついたその集まりに参加した人の中には、最初はわたしの意見に同調してくれる人やかばってくれる人がいました。しかし、最終的にはわたし側には誰もついてくれないようになっていました。「もう仲直りしたんやけどな」「なんにも知らんくせに」と、向こう側にいる友だちを取り巻く人たちのことを何度も思ったけれども、嘘なんじゃないかと思うほどに距離があいてしまったように思います。いつの間にか、身近だった人が遠くに行ってしまったように感じました。その友だちには後ろめたさがずっと残り、用事があってひと言ふた言話したならばぎくしゃくし、そのあとその子と一緒にいる人の、時おりこちらに向ける目つきが異様に気になり、苛々したのでした。
結局また、人のことを気にしていました。「別に誰も近くにいてくれなくても全然大丈夫やし」という態度で、住んでるその町より外に出て、全てを忘れてしまうことができる場所や、わたしのことを肯定してくれる存在、言葉を探し続けました。
そして、自分のことを肯定してもらえたことや、その時、その場所で買ったものをお守りとして、家に持ち帰っていました。わたしの現実社会はカオスで落ち着けないので、家だけは過ごしやすい快適な空間にするために、それらを集めて、落ち着ける場所になるように整えていきました。
大学での過ごし方も変わりました。講義の休み時間は、その町で買った本やテイクフリーの冊子を持ち歩いて読んだり、出会った人とメッセージのやり取りをしたり、保存して貯めていたwebマガジンを見たり、思いついたアイデアで作った手帳やノートを使ったり、寝たり、寝たふりをしたりと、武装して過ごしていました。誰も視界に入れたくなくて、前の方の席に座ることが多くなりました。
気が付けば、狭いわたしの住処の一角には、その時々、いろんな場所から連れてきた紙類のものたちでいっぱいになっていました。何かの拍子にそれらを積んだ山が邪魔になり、パラパラと見ながらどうにか分別しようとする。紙一つとっても、それを手に取った場所の風景や、その時一人で歩きながらじりじりと思い詰めていた内容を鮮明に思い出しました。
現実で生活する中で、次に一見、なんでもないその紙を手にするのはいつの日だろうと思いながらも、そこから思い出される記憶に助けられていました。人との距離感が掴めたと錯覚し、手放しで喜び、結局同じ失敗をまた繰り返す中で、現実から遠くに連れ出してくれるそれらはお守りでした。
わたしは外に出て、ばあちゃんは癌が見つかり、そしてやっぱり死んでしまった。地元でばあちゃんと過ごしていた時のことを何かの拍子にふと思い出します。それが取るに足らない、言うほどでもないやり取りだとしても、忘れないようにしておく必要がありました。現実のわたしは必死に武装して闘っている。その反面、もう戻ることが出来ないばあちゃんと過ごしたときの出来事を、ふとした時に思い出すと、みぞおちの奥がじんわりとあたたかくなりました。わたしは自分の今いる場所を出て、新しく肯定してくれる存在に出会おうとしていましたが、すでにずっと守られていたんだと思えました。
なぜこの勉強をしているのか、自分が学ぶ意義を感じられない日々でした。そんな中、一人旅をすることによって、今住んでいるアパートと大学をほぼ往復するだけの血の通っていない無機質な生活から、わたしは離れることが出来ました。包み込んでくれる上の年代の人たちや地元に似た風景に少しの時間でも身を置き、通り過ぎ続ける中で、ばあちゃんとの記憶に触れられるんだという可能性を感じつつ、なんとなくわたしは、紙というものに惹かれていきました。
その中で、紙を扱うzine作家さんに出会いました。同じ福祉の分野を学んだその方は、わたしの祖母の喪失や勉強に対する意識、わたしが今惹かれているものに対して、丁寧に話を聞いてくれて、アドバイスもくださりました。わたしは、全然うまく伝えきれてないなと自覚しながらも、その時はじめて、誰かに余すところなく打ち明けようとすることができました。いつもは躊躇するのにな。ずっともやもやしていることに変わりはありませんでしたが、空港から帰る高速バスでは、みぞおちがじんわりとあたたかくなっていました。
そんな感じで22歳を過ごしております。
現状はずっと暗いし、目標もなくてさまよっておりますが、少しだけ惹かれるものもありました。まあ、すぐには何も変わりそうにはないですね。来年には変わっているんですかね。
また書きます。それまでお元気で。
22歳のわたしより。