18歳のわたしへ
一人暮らしはしんどいです。最初は「わたしは自由だ」と誰にも止められずに、一人で思うように時間を使える生活に喜びをかみしめていましたが、その感覚が通り過ぎてしまってから一向にそれが戻ってくる気配はありません。わたしが望んでいたものは、こんなにも消費的で、軽々しい行為だったのでしょうか?言葉にできない、言葉にしたら身近な誰かでさえも傷つけてしまうであろうドス黒い感情が増幅し続け、それはとどまることを知りません。誰にも言えない気持ちの扱い方は分からず、私の身に重くのしかかり続けています。どう自分自身をコントロールするか考え、対処し続ける必要がありました。でもそれが分からない。
社会人1年目の頃は4交代制の仕事で、連休はほぼない代わりに、休みが3日に1回あるような生活でした。そんな中、仕事と生活のバランスが整わなくて泣く日々もありました。社会に出てからというものの、学生のときよりも社会と接点がないと感じつづけていて、その気持ちは年々大きくなり続けています。これが親元を離れるということで、地元を出たということなのかと、ふとした時に感じます。
どう動いていけば光の照らす方向を見つけ出せるのか? 解決できるのか? 一向に捉えられないまま、再び就職してしまいました。どこへでも向かえたはずが、また逃げられなくなってしまった。その重みに押し潰されそうになっています。
確か、わたしに高校受験がもう目の前に迫ってきていた年に、鳥インフルエンザがニュースになったことがありました。その時のように、すぐに収束するものだと思っていたコロナウイルスは、全くそんな素振りをみせません。それどころか、わたしたちの生活の様式まで変えてきました。
24歳の頃に「ごはん食べにおいで」と誘ってもらって以来つづいている「映画部」という集まりがあります。その集まりは、わたしが社会との結びつきを感じることができ、仕事をする中で抑制しているわたしを取り戻せる時間でもありました。そんな中、コロナウイルスによって行われる回数が少なくなっていきました。社会人になって3年目で、わたしはどう自分をコントロールしていくかを、実生活の中で初めて考えることになりました。今までは、仕事や生活する中で、どこに向かえば消化できるのか分からない問題や感情に出くわしたとしても、その集まりやその周辺で行われる会で人に会って、どうでも良いことを話して笑っていれば、取扱い方が分からない感情も吹き飛ばすことができていました。目に見えないウイルスによって人々は行動を制限していき、休みの日、わたしも空白の時間を過ごすことが増えていきました。ウイルスに対してどう考えていけばいいか分からない不安と同時に、新しい仕事を始めたばかりで、その環境に慣れておらず、まだ上司は昨日のことを怒っているのではないか?急に顔なじみの職員からわたしに変わって、そこで関わる人たちはいいと思っているのか?などという不安も持っていました。口を開けば誰かがウイルスのことを言っている。不安は積もり、限られた自由な時間の短さにも絶望して、休日は無気力です。
仕事では子どもと関わります。その中の情報技術の分野で、子どもたちを補助しなければならない時間がほぼ毎週ありました。主で担当している方は、「説明書を読んだら分かる」と言ってくれたけれど、わたしには分かる気配が一向にありません。教える立場にいるものの、何も知識がない。説明書の言葉が頭に入ってこない。分からない。なんという時間を過ごしているのだろうか。どんな立ち回りでいたらいいのだろうか。子どもたちの瞬間瞬間の、学習以外も含むいろんな興味に対する反応と、この時間に教えなければいけない専門的なことの間でうまく子どもたちを制御できないまま、その場で子どもたちの反応を楽しむだけの人になっていました。
役に立っていないから、他に教えられる職員がきたら、すぐに取って代わられるだろうと思っています。技量が足りず、自分でも存在意義が見つけられない。ふわふわと立場が宙に浮いているように感じていました。
でも、ちゃんとした役割は果たせていないと感じているけれども、子どもたちとの時間はわたしにとって、唯一の救いになっていきました。仕事で使うものたちは、職場の外では目に入れたくないのですが、スマホには子どもが描いた絵や写真、動画が増えていきました。
保育園へ行くより前の小さい頃、親が仕事で家を空けていて、ひいばあちゃんと一緒に近くの商店まで買い物に出かけることがありました。食料品がそろっているスーパーは、トンネルを三つ越えないといけないわたしの地域に、唯一あるその商店までひいばあちゃんは、シルバーカーを押してわたしと一緒に坂を下り、広がる田んぼの脇道、溝に落ちないように気をつけながら向かうのです。わたしよりも大きくて、固くて開けづらいアイスの冷凍庫を縦に開けてもらうと、なぜかいつもいちごのシロップのにおいがしている。そしてみぞれのカップのアイスを買ってもらい、ひいばあちゃんやばあちゃんがいる家に戻るのです。
子どもたちとドラえもんの真似をしたり、ブロックで想像してなかったピストル作りだしてやり合ったりしていると、そんな小さい頃のことを思い出しました。まあ、仕事の役目は果たしていませんが。
仕事の時間以外の空白な時間、ネットを開いてもテレビをつけてもコロナウイルスによって起こったと思われている事態の情報が流れ続けています。誰もが今までの生活から変わらざるを得ないこと、工夫していかなければならない状態に戸惑っている感じがあります。わたしもよく知っている有名人が亡くなったりもしました。暗く、停滞した空気が社会全体に渦巻いていて、自分自身もまだ慣れない環境や行き場のない感情に疲れていました。
そんな中、ずっとごはんを食べさせてくれる人やその周りの人たちと一緒に、東京の本屋さんとオンラインで月一での読書会が始まりました。本を読んでいる人たちと一緒にテーマに沿った話をしていく時間でしたが、次第にテーマがなくなっていき、近況を話したり、誰かの言葉を拾ってそこから話が拡がっていく時間に変わっていきました。その読書会には、本のことを信じている人達が集まってきているように思います。それだけではなく、毎月顔を合わせて、本が読めたり読めなかったり、身体の調子がよかったり悪かったりなどという一人ひとりの変化を感じとりながら、同じ空気感を共有しているという一体感があります。時間を重ねる中で、もはや身内のように身近に感じられ、嘘は見破られるからつけない、むしろここでは等身大の自分でいることが相手に対して失礼ではなく、信頼しているからこそキャッチボールのためにもそうあることが不可欠な気がしています。かけがえのない時間です。
もやもやと停滞した時間を過ごしている中で、読書は、「読む」と「書く」の二つが合わさっているということを、その本屋さんに教えてもらいました。文章を書き始めたのはその頃です。ミシマ社さんから出ていた常盤司郎さんの『最初の晩餐』をその本屋さんに薦められて読んだのがはじまりでした。感想を書き、本屋さんに送り、住所が違うと戻ってきて、もう一度送り直したのでした。
その時、うまく人と会えなくて、仕事もうまくいかなくて、でもすぐに白黒つけられないことがたくさんあるのだと、グレーなのだとなんとなく感じつつあるものの、中々受け入れられないわたしがいました。思い出すのは、亡くなったばあちゃんとのやりとりで、地元でのいろんな思い出でした。今、生活している街を毎日車で移動すれば、通る道ごとにいろんなエピソードや会話が細かく思い出されます。今までは、そんなことを思い出すことはあっても、その一つひとつを掘り下げて懐かしさを通り越してしんみりと、悲しくなるようなことはなかったように思います。今ではその一つひとつが新鮮で、幻のようで、その当時に戻れないことや、この道中でした約束が次にいつ叶うのかも分からず、不安で仕方がないです。
『最初の晩餐』は、わかりやすい決着が着く話ではなかったように思います。それでも本を読んで、自分の思っていることを人に聞いてもらえることはとてもありがたかったです。その後ブログを始めて、書くことで自分を守れたり、拡がっていく繋がりが生まれたりもしました。
有り余った時間、次第に「読むことと書くこと」の他に生活を整えようと、半年間、そのようなコーチングをされている方に一日の生活の記録を提出し、助言をもらいつつ、見直していくことを周りの人と一緒に始めました。しかし続けていく中で、一か月経った後、ごはんを作り、適度に運動もして、残業も含めて8時間以上の仕事をする生活って、これから一生無理じゃないか?自分ではなくなるのではないのか?と思うようになっていきました。世の人たちは、どうやってそれを成り立たせているんでしょうか?
地元を離れて一人暮らしを続ける中で、ちゃんとした生活ってどうやってするんやろうと思います。休みの日に、こんな現在の世の中でも誰かと楽しく遊んだり、くたびれずに起きて生活できている人たちの話を聞くたびに、心の中でひねくれて揚げ足取って攻撃したり、「もうわしの人生無理やん」と投げやりになったりしています。
朝は弱く、出勤ぎりぎりまで寝ています。でも、仕事に振り回されているだけの日々は嫌なので、夜は意地でも遅くまで起きています。わたしの意志で、意地で、決意表明のように思っています。サイダー飲みながら映画をみて、漫画を読んでとだらだら夜更かしをすることが、わたしの闘い方だと思っています。だって、仕事のためだけに生きてはいないから。
それではまた今度会いましょう。
それまでお元気で。
26歳のわたしより