◯18〜19歳のころのわたし
センター試験に失敗しました。
『スピンアトップ・スピンアトップ』『フェーヤー?フェーヤー・・・・・・チョッ!』が悪かったと、出題された牧野信一の『地球儀』を恨んだ。今までやってきたことは何なんだったのか。実際には、高校入学当初から続き、特にこの1年間は拍車をかけてじりじりと感じ続けていた「勉強して、結果を出していかなければならない」という空気感に押しつぶされていた。気持ちが上向きにならず、寝ても覚めてもずっと胃が気持ち悪い状態が続いていて、評定が確定してからは、より学校を休んでいた。「もうわたしには無理やな」と、どうしたら点が伸びるのかが分からない状態で、ごりごり勉強しているクラスの人たちと一緒に過ごしては、就職する子が多い別のクラスの人たちの騒がしさに対して冷ややかな態度を取ったりしていた。
センター試験が失敗したというよりも、それよりも前の段階、結果が出ないまま、受験勉強をし続けなければならない状態がストレスでいっぱいだった。いろんなことを勉強のために我慢してきたけれども、全然うまくいかなかった。
受験することがもうしんどすぎて、専門学校に行くことに決めた。
小学生の頃、水泳の選手になりたいと思っていた。
アテネオリンピックの北島康介に憧れ、新聞を切り抜き、ビデオに録画してフォームの研究、そしてごりごり泳ぎ続けた。小学4年生の頃だ。弟の方がわたしよりも先に水泳選手の養成コースに声をかけられて、めちゃくちゃ泣いていた。こんなにも練習して、家では筋トレをして、柔軟体操もしているのに。
最終的に養成コース、育成コースと上のクラスに入れてもらい、練習をした。県外の大会にみんなと同じように、当たり前のように出たかったけど出られなかった。遠征組が大会に行ってしまって、いつもの練習がなかったときは、わざと知らないフリをして同じ時間、同じスクールのバスでプールに行っていた。フロントのスタッフが遠征しているコーチに慌てて電話をかけていたことを知っている。電話越しに組み立ててもらったであろう、走り書きのメニューの紙をプールサイドに水で貼り、一人で淡々と泳いでいた。みんながちゃんとした練習をしていない間に、こっそり練習しなければ、速く泳げないと思っていた。一度、「あっ!標準記録切ってるやん」と、わたしが出場できる大会にコーチが気づいて、いつもより弾んだ大きな声をかけてくれたが、わたしは留守番になることを知っていた。
数日前、大会のお知らせのプリントをもらった時、いつものように真っ先に「出場するためのボーダーの記録」を見て一瞬胸が高鳴ったが、喜びをかみしめられたのはその数秒間だけだった。大会の開催日が誕生日の後にあるということで、わたしが大会に出るときには一つ上の年齢区分の記録を越えなければならなかった。大会までもう一か月もない中、成長期も終わってしまったとうっすら感じている中で、1秒以上の記録を伸ばすことは現実的に難しいと気づいていた。開催日を見て、静かに一人でがっかりし、誕生日を呪った。わたしはまた留守番だ。その後怪我をして、ドクターストップがかかり、練習すればするほど面白いほど速くなる成長期真っ盛りの後輩たちに抜かされるようになった。気づいていないふりをしていたけど、もういいかなと中学3年の夏の大会で吹っ切れるように思い、今度は北島を教えた平井伯昌コーチに憧れるようになった。
高校に入ってからは、いつの間にか大学に行くために学校の先生になることを目指すようになっていた。センター試験の点数を踏まえて、一般入試の志望校を出願していくタイミングに、いつの間にか抑えられていたそれらのことを思い出した。専門学校に行くと決めることで、後期受験や私立の受験をする必要がなくなり、勉強からも解放されてホッとした。
そして、県外の都会の専門学校へ行ったら、2週間経たない内に寮の部屋から出られなくなってしまった。都会の環境も、人間関係も、そもそもわたしには合わなかったのだ。部屋に鍵をかけて過ごしていて、完全にプライベート空間なのに、ありとあらゆる機器の隙間から誰かに見られている感じがしたり、防音なのに、どこからか悪口を言われている声が聞こえたりする感じがした。部屋が落ち着かない、空腹なはずなのに食べ始めるとえずく、身体が重い、寝られない。窓からはビルが立ち並び、車が行き交い、人が忙しなく歩く様子が見られる。ここも実家から考えると結構高い場所にある。あと数階上に行くと屋上があり、天気が良い日は布団が干せるらしい。そんなことを思いながら、いざ自分が今行き、部屋でしたように建物からの景色を見れば、吸い込まれてしまうんじゃないかと思っていた。深刻に思っていた。専門学校の先生に言っても、なぜか岡村隆史のことを例に出して、「頑張れ」と言われるだけだった。
泣きながら何度も母に連絡したりした。ある時は父に繋がれたりもする。辛うじてお風呂に行っていたかで連絡が繋がらない時には、かけ直すと、母が電話越しに泣いていたりもした。高校の頃の、部活のグループラインにもついもらしてしまうこともあった。なにもかもおかしかった。
一度家に帰ろうとした。何度か乗った電車だったけれども、帰り方がわからなくなった。無事帰れる電車に乗れても今度は、人の話し声がしんどくて、知らない場所で降りてしまった。よく分からないまま、相変わらず空腹だったので地元の人が通っているであろう駅の前の喫茶店に入り、空腹なのにミックス・オレを頼む。ごはんを食べた方がいいのに、思考回路がめちゃくちゃだ。訳の分からないお金の使い方をしてしまう。昔、弟が産まれそうな時、地元で父と喫茶店へ行き、同じようにミックス・オレを頼んだことを思い出した。わたしはその時、喫茶店で1~10まで数えることを披露して褒めてもらったのだと、何度も両親から聞いたことがある。あの時は側に父がいて、喫茶店のおばちゃんがいて、温かいまなざしに守られていたんだと気が付いた。
もう一度電車に乗り、帰る。途中、隣に座った子どもとそのお母さんをちょっと見ただけなのに、席を立たれたりもした。外に出たら、なにもかもが冷たい。でも何でかが分からなくて、なにもかもがめちゃくちゃだった。
落ち着いてから、塾や高校の先生に会い、専門学校を辞めて、浪人生をさせてもらうことになった。近くに予備校がないため、寮に入ることになった。出遅れているので、新しい寮でもまた人間関係に悩んでいた。外もしんどいときもあったが、ずっとウォークマンで音楽を大きな音で聞きながら、自転車を漕いで予備校まで行き来していた。1ヶ月半くらいした頃に、人間不信のまま言動を笑われていると思っていたけれども、そうではなく、ちゃんと関わってくれる人が出来、病院も行きながら、自分自身の考え方も少しずつ軌道修正されていった。
傷つけて来る人はいる。全く考え方が違い、理解に苦しむ人もいる。でもいい人もいることを、狭い地域から出てから確かめることができた。
学校の行事がないので、勉強はちゃんとしたやり方で習慣として身につくと、成績は面白いほど上がった。勉強以外の時間もちゃんと取れた。たまに友だちと行った、予備校近くのなか卯の牛丼が忘れられない。生卵をのせて、それに紅生姜と山椒をのせる食べ方は、友だちから教えてもらった。
日曜日、午前中で自習を終えてそこから坂道、自転車を30分ほど漕いでTSUTAYAに行く。「今日見る分」としてDVDを2枚借り、坂道を適当に下りながら帰る。近くにあるフレスコや、新しく近所にできたイズミヤでお菓子を買いこんで帰宅。こっそり持ち込んだポータブルDVDプレーヤーにヘッドホンをセットして再生する。
出遅れた上に残っていた部屋なので、机やベッド以外には畳一畳あるかないか。玄関の真上にあるので、夕方に電気がついているかいないかで、わたしがいるかいないかが外からわかった。会いたくないタイミングに、電気の灯りを見て、部屋のインターホンを鳴らされると寝たふりをすることがあった。
日曜日のTSUTAYAや、なか卯はご褒美だった。
わたしの部屋は、玄関から灯りがついているかいないかが分かるので、夕方以降のプライバシーは少し心もとないが、朝は部屋から二条城が見える場所にあった。朝、勉強机に置いてある電子ケトルでお湯を沸かしている間に、歯磨きをしながらカーテンを開ける。すると、必ずお堀の周りをジョギングしている人がいた。Yahooニュースによく載っているから、つい最近まで「半沢直樹」というタレントがいるんだと思っていた。高校を卒業した友だちと会うと、別の世界の人に見えた。わたしも早く、この場所を出て、うまく走り回りたいなと思った。
憧れた水泳の先生は出来なさそうで、何になりたいかは分からないけれど、これから大学に行くようです。不器用なので科目を絞った受験で、大学は限られました。地元のような環境を選ぼうとすると、もっと限られました。行ったことはないけれど、長水プールがあるところを見つけ、Googleマップで確認すると、そこの周りには田んぼが一面に広がっていました。少しテンションが上がりました。ここしかなかったのです。
これからのことは分からないけれども、身近にいてくれる人を大切に、大事だと思うことは大事にしたいと思います。
◯28歳のわたしから、18歳のわたしへ
28歳のわたしがこんな暮らしをしているとは思ってもみませんでした。
一瞬で過ぎ去った今年の梅雨。2週間ほど前までは涼しいくらいだったのに、一気に暑くなってへばっています。本格的にやってくる夏を目前にして、「うそやろ。まだ6月やで」とよく言葉を交わしました。
わたしはこの2週間ほど寝不足で、しかもあと1週間は寝不足が確定しています。天候にもよるけれど。天気予報を見ることは、台風が接近している時か、どこかへ旅行に行く時くらいです。にも関わらず今のわたしは、スマホを触れば無意識に雨雲レーダーのサイトを開き、天気の変化を確認しています。1時間ごとの天気の変化を見ては、「晴れ」マークで絶望し、「雨」マークになれよと農家くらいに願っています。
エアコンがぶっ壊れました。
エアコンのリモコンの冷房を押し、風量を「強」にしても、そこから出てくるのは生暖かい空気でした。修理ができるまであと1週間かかるとのことです。絶望。
「そういえば最近、フィルター掃除してなかったわ!」と思って、効率よく風を取り入れようと窓全開で換気扇をまわして、掃除機を作動させる。汗だくでフィルターのほこりを吸い取るものの、変わらずに生暖かい空気が出てきました。他の人に電話をして言うのは腰が重いけど、大家さんに電話をして、そこから管理会社さんへ連絡、その後業者さんに来てもらうという流れはあっという間でした。
業者さんがエアコンを目にするだけで「あ〜これは替えないといけないですね〜」とため息混じりに言っていました。一応、エアコンを作動させ、どんな現状かを簡単に聞き取りした後、修理の希望曜日や時間帯を伝え、その日は終わりでした。久しぶりに人が来るからと、構えて普段よりは早起きしてできる限りの掃除をしていたけれども、やり取りはものの数十分で終わり、こんなものかと呆気にとられてどっと疲れてしまっいました。そして、「なんか異様に暑いな、、」と思っていたら、【冷房・強】にしたまま、スイッチ切らずに帰られてしまっていたことに気がついたのでした。すごく暑い。すごく暑かった。
夜は暑くてなかなか寝付けず、何度か目を覚ましていて、朝になると日当たりのいい南向きの部屋なのでこれまた蒸し暑くて、普段よりも早くに目を覚ましていました。起き抜けの水が、中学の体育終わりくらいめちゃくちゃ美味しかったです。そんな感じに寝不足が続く中で、エアコンの涼しさを渇望していました。そして、仕事に行けばエアコンの温度を限界まで下げて、人に言われるまでは温度を上げないというスタイルで生活していました。今のわたしには、家よりもエアコンのある職場で過ごせる方が断然よくて、休日ではあるものの出勤しないといけない仕事もありがたく思い、喜びました。しかし、連日の寝不足によって冷房にあたるだけでめちゃくちゃ眠たくなるという状態にもなりました。寝不足からか、少しのことでとてもイライラもしていました。エアコン自体にも執着し始めていて、どんなタイプのエアコンなのか、形や性能、新しさなど建物に入ると無意識に確認したくなっていました。エアコンなしの生活ができない人間なんだなと強く思いました。母と同じだ。
最終的にイレギュラーが起こり、これまで以上に拍車をかけて仕事が忙しくなり、精神的に限界がきた結果、ホテル暮らしを4泊ほどしました。現在は、そのホテルと同じ型のエアコンと生活を共にしています。
大家さん経由で業者さんが取り付けてくれた後、久しぶりに作動している自分の部屋のエアコンを見て、「あっ!!!」と気が付いたのでした。これからも、いつでも自分の部屋のエアコンが目に入ると、この夏の数週間の出来事を思い出すことができるのだと思います。
そんなこんなで思考が正常に働かないままに働いている28歳の誕生日。その日は仕事で会議がありました。会社の誰かが誕生日だと、その日、誕生日の人は抱負などを話さなくてはいけません。わたしは、「こんなことをもうこの時代にやめたらいいのにな」と思いながらも、本気すぎず、なおかつすべらないくらいに程よい言葉をなんとなく考えながら、その日も車で向かっていました。いつもと同じように、上の人がどんな機嫌でどんな空気感の会議になるのかを危惧していましたが、今回も無事難なく終わりを迎えることができました。そしてわたしは、今日移動している最中だけではなく、昨日一昨日の夜寝る前くらいから心の準備をしていた言葉たちを言わなくて済んだのでした。実際、これでよかったと思っています。変に気を使って盛り上げたりする必要もなかったから。
少し前にあった行事の物品で、わたしが持ち帰って綺麗にしてこないといけない担当分が、行事の片付けの段階でどこかに紛れてしまったことがありました。何も言わなくてよかった代わりに今日、その物品が大きめの紙袋に入れられてわたしの元へ戻ってきたのでした。紙袋の中を確認すると、洗濯されていないそれらが、その行事の日のことをありありと思い出させたのでした。
祝われなくてホッとしているけれども、それでもなんとも言えない複雑な気持ちになりました。やっぱり、会議終わりは泣きながらバイパスを飛ばしながら運転して、信号待ちの隙に弁当を口に詰めこみながら職場へ帰っています。
寝不足でもあるためか、なかなか気持ちの切り替えができない最悪の日でした。疲れ切って20時過ぎ、急に雨が降ってきました。慌てて何人かの子どもたちと一緒に、外の雨ざらしになっている自転車を、建物の屋根になる場所へ移動させました。風が強く吹いていて、置きっぱなしの誰かの傘を首に挟みながら自転車を運んでいた子がいたものの、飛んでいってしまったくらいです。慌てて取りに行ったりしました。
「すご!!ここ全然雨落ちてこん!」と子どもが言う。「まじやん!すご!!こんな降っとるのに、ここだけほんまに降ってこんやん!!」と、謎の空間を見つけたことにテンションがあがる。車の通りが少ない場所で、少し行くと住宅街があるくらいです。外はもう暗いので、部屋の中、蛍光灯の灯りの下で机に向かって座っている子どもたちの姿が浮き彫りになっていて、目が合ったりもします。
「今日、父さん、雨降らんって言っとったのにな」とまたわたしの近くで子どもがぼそっと言う。わたしも最近の天気事情にはめちゃくちゃ詳しい。今日の夜も蒸し暑いのだろうと思っていました。だからその時、その言葉を聞いて、鳥肌がたった。これほどに天からの恵が嬉しかったことは今までないように思います。これは誕生日プレゼントだ!!
中へ入ると、ある子どもが受験前と同じような雰囲気で絶望していました。「もうぶん殴りてぇ」と投げやりに言っている。クラスの近くの子に嫌なことを言われているのを、別の人づてに聞いたらしい。「わたしも今日は散々やったで」と、今日は聞く耳を持っていなさそうな、前かがみで歩いて移動しているその子に向かって話し、「一緒にぶん殴りにいくかぁ」と同調して言う。「じゃあ、それで一緒に刑務所入ろう!」と返してくる。本気でやらないし、思わない子だと知っています。だからだろうけれど、その言葉ややりとりは、あたたかくて、思いがけず雨が降った瞬間と同じくらいに嬉しくて、泣きそうになりました。
同じ空気感で、言葉を交わせる人がいる。勉強しないといけない前提で来ている、もしくは来させられている子どもたちもいるけれど、同じ温度感で、収拾のつかない感情を掬い上げてくれることがあります。できないことを改善しようと少し前に宣言したものの、何かしらの誘惑に負けて、また出来なくて、それを咎められている。でも、そんなことよりもまず、ぼそっと言った人の言葉を聞いてくれるくらいに優しくて、かけがえのない存在だと思っています。
最悪な今日の気持ちを、たまたま掬い上げてくれた。眠かったり、調子が悪かったり、勝手に焦ったりして、一方的に伝えてしまうこともあります。そんなわたしに、一言一句、状況や言葉を伝えている訳ではないけれども、同じ目線で言ってくれる、そのことに救われた日でした。
エアコンが戻ってきた7月。何年間もお世話になっている方たちとケーキを食べました。わたしは柑橘系のゼリーが載ったドーム状のケーキでした。口内炎は痛かった。もう一年以上会っていない、お付き合いしている人が持ってきたらしい。なんとなく連絡を取ってみました。ケーキを食べたお礼と、映画は「トップガンマーヴェリック」が今年1良いと思うこと、去年はドラゴンボールZが最強に面白くて、今言わんけどベスト3くらいに良かった場面を言えること、最近まで初期をみていたけれども「超 スーパーヒーロー」が最悪だったからもうみれてないこと、「大怪獣のあとしまつ」は絶望的に最悪だったことを伝え、去年面白かった映画があるのかを聞いてみました。珍しく返信があって、今年1は「モガディシュ」ということを聞きました。そもそも、わたしは今年よかった映画を聞いてないので、まず噛み合っていない。どうせ面白くないんやろなと思いながら、「モガディシュ」を観に行きました。☆4くらい。「トップガンマーヴェリック」の最後の作戦の場面と同じくらい、「モガディシュ」の最後の脱出の場面は緊迫していて、登場人物と同じように息をとめてしまうくらいでした。その面はよかった。でもやっぱり韓国映画の、すぐには好転しないであろう重い現実を突きつけてくる空気感は絶望的で、これが今年1いいというのは、わたし的にはよくなかった。そして、まだ今年は「沈黙のパレード」と「犯罪都市2」と「魔女2」があることを聞きました。どうせ面白くないんやろなと思いながら、またわたしは観てしまうと思います。公開日的にまずは、「ガリレオ」を予習して、「沈黙のパレード」を観るところからだろう。
ずっとこうだ。人がいいと言っていた映画で手放しにめちゃくちゃいいことは、なかなかない。それでもきっと、新しい情報を得ては、無理やろなと思いながら、観始めるんだと思います。ずっとこうやってきたから。
これからもわたしが投げやりにならなければ、誰かと比べて自暴自棄になり続けなければ、こうやっていろんなことを知り続けられるのだと思います。映画のことも、その人のことも。そして、近くにいてもいなくても、昔見た作品をもう一度観ると、いろんなことを思い出してしまうのだと思います。
作品を積み重ね、年月を重ねると、一つ一つの勧められてきたものの流れと時間の重みを感じます。きっとわたしが勝手に思っているだけやろうけど。
でもわたしが投げやりにならずに生活を続けていたら、ちゃんと記憶を積み重ねていけるのだと思います。後先を考えることは、躓きの石と同じだと最近、伊藤整さんの『女性に関する12章』という本から知りました。書いてあるそのページは、破って食べてもいいと思っています。
今をみて、今を生きていきたい。伝えられることは伝えようとする意志を持ち、たとえ伝えられなくても、“今ここに暮らす”ということを、自分の意志として続けていきたいと思う。
一人暮らしやコロナ禍の中で、頭に思い浮かんだ人たちみんなと一緒に、長いこと生きていきたい。
じゃあまた書きます。
少し間が空くと思うけど、それまでお元気で。
みんなのことを大事にするんやで。
自分のことも忘れずに大事にするんやで。
28歳のわたしより