当番ノート 第51期
絵を描きはじめていた。そのきっかけは突然だった。 役者をやろうと意気込んで、家と仕事まで変えて入学した学校を辞めて、 手元に何もない、空っぽになった自分のもとに まるでどこかの誰かが絵筆を渡しに舞い降りてきてくれたような感じだった。 ある平日の夜、友達に渋谷でワインを飲みながら楽しむアートナイトイベントがあるから参加しないかと誘われた。 てっきり映画か何かを鑑賞しながらワインを飲むようなイベントを…
当番ノート 第51期
時々、どこか遠くの街で暮らすのも悪くないかなぁ、と思うことがある。 一人も友達がいないところへ行く勇気はないけれど、一人くらい友達がいるところなら、何かの拍子でふらりと移住してしまいそうだ。私は時々、突発的に行動してしまうところがある。だから本当にそうなっちゃうかもしれない。 「一緒に住んだら面白そう」 冗談っぽくそんな話を友達としながら、でも、ほんの少し本気も織り交ぜながら、まあそうなってもいい…
当番ノート 第51期
「徘徊」という言葉の見直しがされる昨今、目的もなく歩き回ることの意なのであれば、私は喜んで使っている。 夜が更けた頃に、近所の友人から突然「ちょっと徘徊しようよ」と誘われればウキウキした気持ちで夜の街を徘徊する。 徘徊は気持ちがいい。 目的もなく、好きな音楽を聞きながら、ちょっと歌詞に浸ったり、知らない道を通ると小さな公園や、いつの間にか新しいお店ができていたりする。 きっと、いつも家の裏で見かけ…
当番ノート 第51期
ゆううつな朝の小田急線で、見覚えのあるおばあちゃんが目の前の席に座っていました。うつらうつらと気持ちよさそうに眠っていて、本人なのか確かめることはできませんが、モリヤマさんに似ています。最後に会ったのは、おそらく退職の1週間前でしたから、もうずいぶん経ちます。 人は本当に儚く交差しながら生きているなあと思う瞬間があります。おどろくようなタイミングで、かつてつながっていた人と再会し、ある日を境に、唐…
当番ノート 第51期
北鎌倉に来る少し前まで、役者の活動をしていた。 稽古をして小さな舞台に立ち、演技を本格的に学ぼうとプロの役者を育てる学校に通っていた。 その学校は、ほぼ一人の先生が支配する独裁国家のような環境で、その先生から言われる指摘がそれはまぁダイレクトだった。 普通の会社で口にしたら、パワハラと言われるような言葉が授業中飛び交っていた。 人間性を否定されるようなことを言われるというか、 「お前の人間性がダメ…
当番ノート 第51期
「なんで一人暮らししようと思ったの?」 その人は興味深そうにそう聞いてきた。 緊急事態宣言解除後の最初の土曜日、私たちは会っても良いものかと迷いながら、だけどやっぱり会うべきだと思ってオフィス街の喫茶店に入った。 「勢いですね」 私は笑いながらそう答えた。 その人は私が学生の頃からずっとお世話になっている人で、偶然にも母親と名前が字まで同じという第二の母のような人。 食事はほとんど自炊をしていると…
当番ノート 第51期
今日こそ自炊しようと決めたのに。 家には頭の葉が成長してきたにんじん、芽が出てきそうなじゃがいもが残っている。しかし時刻は23時30分。とりあえず溜め込んだ洗濯だけでも回すかと、洗剤を求め25時まで開いているスーパーへ駆け込んだ。 この時間からの自炊はしんどい。今日は納豆と安くなっているマグロの刺身を買って帰ろう。レジに並ぶと、「次の方どうぞ、こんばんは〜」としわしわの笑顔で接客してくれる人がいた…
当番ノート 第51期
はじめまして。梅雨入りから夏にかけて季節が移ろう、このみずみずしい2ヶ月間に、週に1回の連載を持つことになりました。あたたかなご縁に感謝します。初回は自己紹介も兼ねて、大学を卒業してから、これまでについて、少しだけお話することにしましょう。 私は現在24歳、社会人3年目です。文系の四年制大学を卒業し、半年ほど前までは、坂下にある小さなドラッグストアで働いていました。 大きな公園が目の前にあるのどか…
当番ノート 第51期
北鎌倉の自然につつまれている。 意識をしなくても、そんな風に感じられる。 一人でいても、都会のコンクリートに囲まれた密閉空間にいた時より、寂しく感じていない。 朝、小鳥のさえずりで目覚める。その日によって聞こえてくる鳴き声は違くて、カラフルな音色が朝から楽しませてくれる。 遠くからは、早くから働き者の電車がゆっくりと走りだす音も聞こえる。 さぁ私も動き出そうかな、と小さなアパートの部屋にしては大き…
当番ノート 第51期
夢だった一人暮らしを始めて、ちょうど一ヶ月が経った。 意外にも、新しい生活は身体と心にすんなりと馴染んだ。 朝ごはんと昼のお弁当を作り、仕事へ行き、帰ってきてお風呂に入り、寝る前のちょっとした自由時間を過ごして、眠たくなったら寝る。それを繰り返している。 快速が止まらない小さな駅から歩いて10分ほどのところにある、築15年、家賃5万7000円の1Kのアパートに住んでいる。南向きで、日中は日当たりが…
当番ノート 第51期
東京砂漠は過酷だ。 自分で選んだ道で生きていくため「仕事」という大波で溺れそうになりながら、息継ぎする間も無く1日が過ぎていく。いつものように終電後にタクシーに乗って、家の近くのコンビニで降りる。明日からも武装していくための『チョコラBB』を買うために。 いつしか深夜のコンビニがルーティンになっていたとき、必ず山田さんはレジに立っていた。「いらっしゃいませー」という抑揚のない声、一度も合うことがな…
当番ノート 第50期
一周忌を終えると、一般に「喪が明ける」と言われている。 ずっとどこかで父のことをじゅくじゅくと考えていた1年だったので、いざ喪を終えるとなると、なぜか少し焦った。もう喪に服さなくていい、ということは、父にかまけず晴れ晴れと生きていかなくてはいけない合図のように思えた。どのように振舞っていたんだっけ、父が亡くなる前は自分はどんなことに興味がある人だったんだっけ、と思い出そうとする。 でもそれは、難し…