今回もまた展示のお知らせすみません。9/5から10/1まで、新中野のgallery café NICCOにて絵を展示しています。
おおよそ8月に展示した絵を展示していて、8月にタイミングが合わなかった方はもし良かったら。前回から少し枚数は少なくなりますが、ボールペンの絵を30枚ほどとカラーの絵を15枚ほど展示しています。
日ごとにお店が変わるシェアキッチンで、毎日営業時間が違うのでスケジュールを確認してお越し頂けるとありがたいです。毎週土曜日の営業時間中は在廊予定です。
詳細↓
木澤洋一作品展
The grape sink into the hard wall
<スケジュール>
9/5(月)〜10/1(土)
月:14:30〜18:00 カフェtime
火:11:30〜21:00 イタリア家庭料理
水:14:00〜21:00 パフェ ※なくなり次第終了
木:11:30〜21:00 イタリア家庭料理
金:11:30〜17:00 カフェ&ゴハン
土:14:30〜18:00 カフェtime
日:Close
※9月22(木)のみmachi SALONさんの水彩画ワークショップがあり、通常営業とは異なるようです。
※ 飲食店のため、ワンオーダーお願いいたします。
<場所>
gallery café NICCO
東京都中野区本町6-26-8
丸ノ内線新中野駅から徒歩3分です
お店のインスタグラム https://www.instagram.com/gallery_cafe_nicco/
私のアドバイザーはなんとなく、ずいぶんと透明だった
最近熱出して寝込んでいたが、まったく創造的な事は考えられなかった。半分寝ていて半分起きているような状態で、私は頭の中にいる何か透明で名前も知らない今日初めて会ったばかりというような、とにかくなんとなく、ずいぶん透明のアドバイザー(透明ながらも輪郭はある、男性)に今よりもっと上手くやるにはどうしたらいいのだろうか?という質問を投げかけていた。
今の私は光り輝かない銀色の小箱をただたくさん並べているだけで、もうこれ以上どうしようもなく、何もやる事がなく寂しいし誰にも見向きもされず衰退していくばかりだからどうしたらいいのか、と。
するとアドバイザーは、後ろに隠れている赤い箱をずっとずっと手前に持ってこればいいと言った。それがとっても大きく見えるように目の前に持ってこればいいと言った。
彼は私の視界を操作してその様子を見せた。
私は、なるほど!と、まるでその通りだ!と思った。
次にアドバイザーの彼はもう一つ光り輝かない銀色の箱も1つ選んで、ずっと手前に持ってきて、赤い箱と並べてツートンカラーにしてもいいよ、と言った。
私は、な~るほど!と思った。そしてアドバイザーは姿を消した。
すると次の瞬間、私は先ほどなぜ赤い箱を手前に持ってくる事や、光り輝かない銀色の箱から一つを手前に持ってきて赤い箱とツートンカラーにする事にあれほど深く納得したのか思い出せなくなっていた。
赤い箱を手前に持ってくるという事は何か派手な事をしてトラブルを招き入れる事をオススメしているのだろうか?銀色の箱も一緒に手前に出してツートンカラーにする意味はなんだろう?
なりよりもその箱が移動しているだけのビジュアルが非常に寂しかった。
つまり寂しさをどうにかするためには私は箱そのものをもっと別の良いものに変えないといけないんだろうと思った。
しかし同時に、未だに寂しい時はもっと寂しいものを見るのが唯一気を紛らわせる1番の方法だと思っていたし、そういえばうまくやる、発展する事に対してはあまりにも心配症だからなのか常々反対の立場をとっている事を思い出した。
それと先ほどから箱と言っていたが、実際のところそれは箱ではなく四角いブロックだった。
当然ながら、先程の透明のアドバイザー(男性)はスキンヘッドだった。だって透明なのに髪の毛が生えてたら髪の毛のビジュアル処理が大変だもんね。様々な媒体で見る輪郭つきの透明の人間のビジュアルはそういう意味でいつだってスキンヘッドだ。
七夕の短冊、心に豊かさを
土曜日の朝、部屋の中で、私は私の娘を見ている。娘はレゴブロックで遊んでいる。
そしてその時私はなんとなく実際の娘を見ているのではなく、娘の画像を見ているように感じる。私は私をカメラ付きの機械のように感じる。そして画像を保存し呼び出すという大事な機能が故障している気がする。それらが悲しい。誰だってそうかもしれないけど、娘が生まれたのが昨日の事に感じる。妻と結婚したのも昨日の事に感じる。全部が全部昨日の事のように感じる。一瞬で画像が飛んでいるように感じる。
この悲しみ、自身をカメラ付きの機械とみなすようなザコ視点やザコ発想をやめれば解決する事は分かっている。
(ザコ視点=ザコが持つ視点、ザコ発想=ザコの考える発想)
でもやめられないんだ。そういうザコの発想やザコの視点が大好きだからだ。とても安心するからだ。心配症すぎてこのようなザコの視点を持ってないと日々生活しづらい。(それと関係無いけど私は心配症すぎて、心配事には一度だって対処した事は無い。)
そして現実的には常に変化するように、方々動き回って生活していれば、年に何回かは旅行に行っていればきっと日々はもっと連続して感じられると思う。でも出来ないんだ。
とにかくいつだってその場に留まり体力を温存している。寝る前になるべく絵を描きたいからだ。絵をたくさん描けばきっとおおよそがうまくいくはずだから絵を描きたいと思っている。でもいつもその場に留まっているせいで、絵の具を用意するだけで休憩が必要になっている。ちょっと絵を描いただけで横になるか一服したくなってしまうんだ。体力を温存したいからという理由で布団の上でよく横になって携帯電話のディスプレイを凝視しながら触ってそのまま寝てしまっている。
そんなこんなでもうすぐ七夕、突然に妻が
「短冊を書くよ~」
と言って娘と私に七夕の短冊を渡してくれた。
私は
「オゥ、オゥ」と小さな声でうめくように返事をし、妻が用意してくれた短冊を受け取り、
うな重を、2日に1回は食べれるように。広い部屋で大きい絵を毎日描けるように。
と書いた。少し待っていると娘と妻も短冊を描き終わった。
娘は3人で見せあっこしようと言った。娘も妻も、一緒に書いたのか示し合わせたように
家族3人が元気に笑って過ごせますように
と書いていた。娘はそれに加えて、「ウルトラマンゼロになりたいです、母ちゃんと一緒にごはんを食べれますように」と書いていた。
そして私の短冊を見た妻と娘は、何か父ちゃんの短冊は変じゃないか?と言っていた。
妻は
「これは無いよね~、酷いよねぇ。」
と言った。
娘は
「この人オカシイよねぇ~、アナタはオカシイです!」
と言った。
妻は、何で1人だけ自分のことばかり書いているんだよ~、と、何で毎日じゃなくて2日に1回なんだよ、なんでうな重なんだよ、広い部屋で毎日絵を描きたい人なら短冊に書く前に今もう毎日絵を描いとる。なんで食べれますようにじゃなく食べれるようになどと変に上からな書き方なんだ、とにかく恥だよ、本当にヒドイッ!と言った。
娘は、恥ずかしい人だよねぇ~!とたっぷりと感情を込めた抑揚をつけて、笑って言っていた。
私は、
「エェ~ウッソォ~!そんなにヒドイのォ?」
と言いながら、確かにほんとその通り、なんでこんな一族の恥さらしのような短冊を描いてしまったんだろうと後悔した。家族の幸せを願わないといけないし、変に幼稚な日本語をやめないといけない。
思えばずっとずっと恥ずかしい事ばかりしている。いつもの事だ。誰かが私に話しかけてくれる。私はいつも頓珍漢な事を言う。わずかに奇妙なタイミングで。何ひとつとして真剣に話を聞いてないからだ。優しい人は、いや今はその話じゃ無いんだよ、と言ってくれるか、何も言わずに話を軌道修正してくれ、その後も何の手応えも無い私の返答の相手をしてくれる。そして年中元気無いのに、つい子供みたいなひどくつまらない大きな事ばかり口走ってしまう。気分だけは年中いいからだ。人目を避けて布団に横になり、ずっと自分を自分だけで評価しているからだ。だから気分はいいが気分以外はとっても悪いよ。そして子供の頃からずっと、うな重が食べたいと思っているし焼肉に行きたいと思っている。想像力が貧相なんだよ。
早く立派な父ちゃん、立派な旦那になりたい!!