先月はついに連載に穴をあけてしまいました。不覚。
というわけで、ちょっとそこんところの言い訳じみたところ辺りから。
先月12日に、友人のマルニクス・ルーメンスがディレクターを務めるワークスペースブラッセルズ(以下WSB)という主にパフォーミングアーツに関するアーティストのサポート組織のイベントのオープニングがありました。日本・ベルギー修好150周年にまつわるイベントでもあり、日本に関連した作品を中心にしたアート作品、およびパフォーマンス作品の展示をする企画で老若男女、有名無名のアーティストが折り紙からVRまで多種多様な作品を持ち寄ってのなかなか興味深く、且つ充実した内容の展示会で、そのオープニングも盛り上がりました。(11月12日まで展示は継続中。)
で、その企画にはオープニングにだけ参加して、売茶翁的にお茶でも振舞いながら客と日本についてあれこれ話すくらいのことでお茶を濁せば事足りるだろう、と高を括ってとりあえず会場の下見に行ったのが9月の半ば。その頃ちょうど吐きそうになるくらいの量のやきものの注文の製作が佳境に入っていて、とてもじゃないけど、お茶を出すくらいのことでしか協力はできないだろうと思ってました。無理するの嫌だし。
が、しかし。マルニクスと下見をしているうちに、ある部屋とその中のバカでかい家具(しかも威圧感だけはあるけど作りはイケアの家具レベルのしょぼいやつ)を見せられて、「この部屋とこの書類棚を使って、こーし、なんかできない?」とか言われたので、「まあ、おれ今そんなに時間ないんだけど、この(箱状になってる)棚の一つずつに庭みたいなしつらえをしたら面白そうだよねぇ、苔庭とか枯山水のミニチュア版がいっぱい、みたいな。」と、極めてテキトーに返してしまったのだった。すると「それ面白そう。日本っぽいし、予算つけるからやってみない?」みたいな話になってしまい、そこでおれも無理だとはっきり断ればいいものを「いや、おれ時間ねぇって…、あ、いや、でも予算っていくら?」と少し色気を出してしまったのが運の尽き。ダンサー時代の悲しいサガか、ちょっとでも予算が出ると言われると、じゃあそれでなんかやってみるよ、と断れなくなってしまう自分の優柔不断さとセコさに嫌気がさしましたが、まあ、なんとかなるんじゃないかとも思ったので、安請け合いしてしまったのでした。
ということで、なんとか無理くり時間を捻出して、その作業を開始したものの、やり始めるととにかくやりたいことがどんどん出てきて、素材を買いに走ったり、しつらえに必要なものを発注してそれをまた取りに行ったりと、久しぶりにクリエーションのドタバタ感を味わいながら、合間に往復二時間の仕事場まで行ってはろくろを引きまくって、またWSBに戻って作業をする、みたいなことが延々とオープニングの日まで続いてしまったのでした。
で、そんな優柔不断二兎追い自業自得猫の手借りたい状況の中で、先月分の原稿が書けなかったわけでした。関係者各位、ほんとすいませんでした。ぺこり。
(そのインスタレーションの様子↓)
で、まあ、なんだかんだで初のインスタレーション作品みたいなものを作り、意外とその作業を楽しみ、オープニングではWSBでいろんな人にもあったりもして、収穫もあったのだけど、何が良かったって、ふふ、今回のギャラでもって、ふふ、デジカメを、ふふふ、新調したこと。ふふふふふ。リコーGR2。ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ… 止まらんw
GRはデジカメバージョンの初代機を買ったのが確か2006年だったから、だいたい10年ぶりに新調。あのGRのせいでしばらく写真にはまることになったので、思入れは深い。で、早速使ってみると画質は圧倒的に良くなってる。(外装がちょっと安っぽいのが気に入らないところではあるけど。)そして使い勝手の良さったら無い。富士フィルムのX70とどっちにするかしばらく迷ったのだけど、チルト式液晶ディスプレイなんていらんから、その分軽くすっきりさせてくれ、自撮りとかしねえし、という思いが募り、GRに決定。とにかくコンパクト。コンパクトカメラなんだからコンパクトでなきゃね。やっぱり。
そう言う意味ではデジイチとかいつも持って歩くのは気合を入れなきゃ無理。ただでさえ余分な本やら余分な植木バサミやら余分な文房具やら、余計なものをもって歩かないと気が済まないらしいぼくにとってデジイチ(PENTAX K7を未だに使用)は重すぎる。とはいえカメラを持ってなきゃ写真は撮れない。じゃあスマホでいいじゃんと言う意見もあちこちから聞こえては来る。そして確かにスマホの簡便さは素晴らしい。写真の質もかなり上がってる。とはいえスマホ写真だといろいろ妥協しなきゃならないのが気に入らない。使ってるうちに段々と写真が単なるメモの代用にしか思えなくなってくるのがつまらない。というか、ちょっとこのGR2を使ってわかったのだけど、結局ぼくはこのGRレンズの描写以外はあんまり好きじゃないんだと思った。ときどきたまたま構図やら光やらがうまいことあいまってドキドキするような色に仕上がって来ることがある。そういう時の感じは、ぼくの乏しい写真経験の中ではツァイスのT*コーティングレンズで撮った銀塩写真で味わえたくらいだ。(ちょっと言い過ぎか?)ともあれ、好みの仕上がりに向かわせてくれる道具というのはどんな仕事に関しても重要なものだなあと改めて思った。道具に妥協してはいけない。
道具といえば、直近で探している道具が三つある。手帳と鉄瓶と石油ストーブが欲しいので、ここ数日は深夜までその三つを検索しまくっている。手帳はまあきっと来年用もを選ぶだろう。見開き一週間のバーティカル二十四時間区切りが便利。というかこれがないと予定が立てられない。アマゾンを使っても日本からは送ってくれないらしいので、そろそろなんとか入手する方法を検討せねば。
鉄瓶は薫山工房というところの万代型で表面に何の細工もされてないのが良さげ。鉄瓶の表面が霰になってるのはなんか嫌。ブッダの頭みたいだし。今度日本に帰るときはまずこのシンプルな鉄瓶を入手したい。何となれば意外と貧血になって立ちくらみしたり肩こりが以上にひどかったりするので鉄分がしっかり入った美味しいお湯を常時いただきたいから。これからの季節は特に重要。
で、ストーブ。実はこれを書いている一週間前に自分のアトリエ内で七輪を焚いて暖を取っていたら、一酸化炭素中毒で死にかけた。膝が震えて立てなくなる寸前まで気付かず、マジで死にかけたので、室内で七輪はもう二度と焚かないけども、これからむっちゃ寒くなるから暖房は必要。ガスストーブが安くていいと言われたんだけど、どれもこれも中途半端にモダンなデザインで格好悪い。なのでいっそのこともっとベタな感じの暖房ってことで、石油ストーブに狙いを定めた。炎のメラメラが見えるのも好ましい。そして目指すは筒型(正式には対流型というらしい)。
調べてみると、世界的に石油ストーブというのは日本製のが一番売れてるらしい。ブリュッセルの専門店に行ってみても、日本製が一番だと言われた。なのでトヨトミという会社のzibro というブランドのストーブを探しているのだけど、目指す筒型、KRA105はもう製造していないらしく、日本で売ってるという他の筒型モデルもヨーロッパでは発売していないっぽい。なので現在、中古品を探し中。
なので今日も、もしやと思い石油ストーブを探しにブリュッセルの蚤の市に行ってみたのだけど、めぼしいものはなく、代わりに古本を二冊購入。一冊は草原と水辺に咲く植物に関する図鑑。フランス語。挿絵が綺麗で眺めるだけでも楽しい。薬効なども書いてあって、試してみたくもなる。
もう一冊はなぜか日本語の本で鈴木信太郎の『記憶の蜃気楼』(講談社文芸文庫)。裏表紙の解説によると辰野隆と一緒に『シラノ・ド・ベルヂュラック』を翻訳した人らしい。この鈴木信太郎という人のことは知らなかったのだけど、辰野隆といえば青山二郎や小林秀雄とも交流があった人だから、そういう時代のそういう界隈にも近い人だったのだろう。パラパラと拾い読みしてみるだけでも確かにその界隈の雰囲気が伝わって来る。そして拾い読みの途中に、この本を見つけた時にそのすぐ脇に著書があったジュール・ベルヌの名前を見つけたり、「私は本を一冊選んだ。ブリュッセルのラコンブレ書房から刊行された…」という一節を見つけたりしてちょっとしたシンクロニシティを感じるのは、自分ではコントロールできないけれどもそこに自分がいなければ成り立たない繋がりみたいなものに想いを馳せる機会になって、なぜか妙に和んだりするものだ。自分を世界につなげるために自分は必要なのだと確認できるからかもしれない。無我に遊んでいる時にこそ繋がっていくものだと確認できるからかもしれない。何ものとも繋がっていないと感じることほど怖いものはないのだし、楽しんで繋がれるのならこんな快楽主義的なことはない。アタラクシア。遊びをせんとやうまれけむ。
さて、この原稿が公開されるときにはすでにもうすっかり11月だ。年末に向かって俺まっしぐら。イェイ。
まだやり残してることいっぱいだ。読み残してる本もいっぱいだ。会いそびれてる人もいっぱいだ。見そびれてる映画も展覧会もいっぱいだ。試し損ねてる釉薬もいっぱいだ。そういえばここのところ劇場にも行ってねぇな。ウゥム…とりあえず手近にあるものからとっかかろう。というか、星野源って結構芝居もうまいのね。ちょっとびっくり。