今年の春頃、新宿ニコンサロンでの個展を終えたばかりのニーモ君が、ちょっとした実験の個展をやりたいと相談に来ました。その結果、先週の8月4日〜7日までクロスロードギャラリーで開催された「あなたが写真を好きだから。あなたも写真を好きならば。」という、ちょっと変わったタイトルの展覧会になりました。
1枚の写真だけを飾った展覧会で、その写真も本人が製作したものではなく、ニーモ君の親戚から送られてきたものだそうです。そこに写っているのはニーモ君のお祖母様にあたるのだそうですが、送られてきた理由というのも、ほとんどただそれだけの理由で、いつ何のために撮られたものなのかは不明とのことでした。
モノクロ印画紙に人造着色仕上げを施された母親らしき女性と、5人の子供が写っている写真です。背景をよく見れば、川越しに誰もが知っている世界遺産にもなった建物であることがかろうじてわかる程度で、そこをバックにして撮影したとも思えない中途半端な位置で撮影されています。(そもそもこの写真が撮られた当時は、一般市民にとってとくにどうということはない、普通の建物にすぎないと思われます)
キャビネくらいのプリントを額に入れて、会場の一番中央の壁に1点設置して、隅の方に資料と、アンケート用紙を設置したら、搬入作業はおしまいでした。あまりに壁がガラ空きなので、壁の汚れや釘痕の方が目立ってしまい、初日のオープン前までに、ほとんど全部の壁のレタッチを入れたくらい、ガランとしています。
誰が撮ったのかもよく分からないその一枚の写真ですが、立場上何の関係もないぼく自身も、たった一枚の写真でどうしてこんなに想像力が働き、写真の力ってすごいな〜って思っていました。しかし、それ以上に興味深かったのが来場者の人たちの反応で、かなりの確率で展示作業中と間違えて、入り口のガラス越しに一瞥して立ち去るひと、会場に入ったものの、小さな写真が1枚しかかかっていない空間にどうして良いか分からず、ほとんど空っぽの空間を一回りして、すぐに立ち去ってしまうひと、(その間写真との対面時間は5秒程度か?)が意外と多いのが印象的でした。
1枚しか写真がないことに、不満を述べるひともいたようです。
ということで、来場者の過半数のひとは、写真が1枚しかかかっていないこと自体に、なんらかの不安な気持ちを持ってしまったようです。あるいは写真展に期待しているものと、違っていたのかもしれません。
では、何枚あればひとは安心するのかと、意地悪く思いたいところですが、壁全体を作品で埋め尽くす必要はないわけですし、例えば公募展などで、ひとり1枚しか飾られていない展示は何の疑問もなく見ているのに、会場に一つしかないと急に不安になるのはどうしてなのでしょうか。
仮に、会場に50枚並んでいるとします。ギャラリーの滞在時間に制限はありませんが、仮にその会場で30分を過ごしたとなると、50枚の作品を眺める時間は平均して30秒あるかどうかです。もしかすると、10秒程度かもしれません。せめて、3〜4分でも、その1枚の写真の前で、そこに描かれているものに向き合ってくれたら、と思うのですが50枚の写真が並んでいるのと同じように、わずかな時間写真の前に向き合ってそのまま立ち去ってしまう。
何だか少しもったいない気がしています。連日の猛暑の中、新宿四ツ谷界隈の写真展を熱心に見て回る人は少なくないのだけど、一体写真展の何を見ているのだろうかと。展示方法がどうであれ、まずは写真の中に何が写っているのかを見ることをしないと作品を間にしたコミュニケーションは成立しない。見る側もきちんと接してあげないと、作家さんは鍛えられないのです。不安になることこそ、今まで経験したことのない、異質で新しい感性との出会いそのものであり、それが作家さんの表現と出会う最大の喜びであるというのに。
ついでに言うと、その作家さんのお友達と思わしき人が、10分ほど会場を見回して、作家さんに「すごい良くわかるよ、良かったよ!」などと声をかける方、しばしば目にしますが、真っ当な作家さんは、そういう声かけには、無反応だし、僕自身そういう光景を目にするたびに心が締め付けられるほど痛い。いますぐわかってほしいなんて、誰も言ってないのです。会場を後にして明日、少しわかるかもしれないし、来週かもしれないし、再来年になって、何かに気がつけるかもしれない。今日見た展覧会が肌からしみこんでいって、ある程度の時間が経過しても、誰かの記憶の片隅に残り、あれは一体何だったのか?とじわじわと思いを巡らせてもらえることの方が、作家さんにとっては幸せなんじゃないでしょうか。