最近アパートメントにMaysa Tomikawaさん、ひだまこーしさん、とたて続けにマグノリアの話題が書かれていて、実際僕はお二人の文章を読むまでマグノリアが何であるか知らなかったんだけど、それはモクレン属の植物の属名なのだった。
Magnolia heptapeta ビャクモクレン(白木蓮)
Magnolia quinquepeta シモクレン(紫木蓮)
Magnolia kobus コブシ(辛夷)
Magnolia grandiflora タイサンボク(泰山木)
この属名を知らなかったのは残念だが、僕はマグノリアという名は知らずとも、この属に属するビャクモクレンが昔から大好きである。
植物一般にほぼ興味がなく、春に桜の樹の下で浮かれることもない僕でも、桜に少し先んじて咲き、短期で壊れるように散ってしまうビャクモクレンだけは毎年楽しみにしている。
ふだんカッコつけて「花鳥風月撮るべからず」などと言ってる僕も、この花にだけは吸い寄せられてシャッターボタンを押してしまうのだ。
ちなみに「白木蓮」は一般的に「ハクモクレン」だろうが、どうしても「ビャクモクレン」と呼びたい。
白の字は漢音でハク、呉音でビャク、どちらの音で読まれるかはその言葉が伝来した時代に由来する、とモノの本にある。
根拠は何であれ、ビャクと読むとなんだか仏教的な香気が漂うので、かの花の姿により似合う気がする。
ハクモクレンじゃなくてビャクモクレン。
とはいえ、やっぱりカタカナは読みにくくて冗長なので漢字で白木蓮と書こうか。
みなさん頭の中でビャクモクレンと発音しながら読んで下さい。
遠目で白木蓮と紛らわしい植物にコブシがある。
花の色や群れ付く様子が似ているので、木を見かけるとテンション上がって駆け寄ってしまうのだが、コブシとわかれば気も萎えてしまう。
別にコブシに罪はないのだが、ただ、白木蓮への偏愛ゆえである。申し訳ない。
花の色も咲く時期も似ているのに、そして両方マグノリア属の植物であるのに、なぜコブシでは駄目なのか、ということを考えている。
白木蓮の花弁の、より曲線的な形状と花弁の分厚さが大事なのだと思う。コブシはあっけらかんとしすぎているし、花弁に重量がない。
白木蓮のあの曲面と厚み。
分厚く、壊れるように枯れていく花弁は、まさにそのまんま、滅失の悲しみである。散るというより落ちて滅する。
曲面は、直裁的に官能にかかわる。
といいつつ、本当にそうか? とも思う。
あれは何かの連想を促す曲面だろうか? 女性の白肌とか、そういうベタな類推のものではないと思う。
そんなんじゃないんだ。連想が促す官能、何かに似たエロ、ではないのだ。
実際にエロいものを象徴しているとすれば、今昔物語あたりに白木蓮に精を吸わせて花の子を成した話、みたいなのが収録されていてもおかしくない(畑の蕪に射精した旅の男がいて、それを知らずに食べて妊娠してしまった女の子の話、なんてのが今昔物語には載っていますね。巻二十六第二)。
どうもそうではなくて。
エロいなんていう言葉を使うと雑すぎてよくわからなくなってしまうが、多少品よく「官能」という言葉であっても射程が広すぎてとらまえきれない。
生まれて初めて白木蓮を見た、まったく異文化圏の人にとっても白木蓮は官能的だろうか?
やはり文化的な蓄積からの何らかの連想でその官能は生じるのだろうか。
マグノリア、という語感がすでに官能的な気がするから、欧米の人であっても事情は同じではないかと想像する。
白という色の持つ比喩的含意。
ハクモクレンではなくビャクモクレン、という僕の拘泥も、そういう比喩的な何かに乗っかっている。
肉厚な花弁の持つ曲面と質感の比喩的含意。
壊れるように枯れていく姿の無常感。
そういうものが重層的に絡み合ったイメージなのだろうか。
白くて分厚く曲面が美しく儚く壊れるもの。そう並べれば頭蓋骨的でもある(杉浦日向子『百日紅』の中に、庭の白木蓮が落ちるのを髑髏の落下に見誤って怯える人の話が出てくる)。
ほらまた仏教的な香気がする。
すべての美的な衝動を性欲に結びつけるのは古い話で、今はフロイトなんかも過去の遺物扱いされているらしいけれども、エロいものと美的なものが根っこで繋がっているというのは、やっぱりそれはそれで嘘ではない思う。
もっと根に深く未分化な衝動とか情念のようなものがあって、そこから派生して性的なものと美的なものが枝分かれしていくんじゃないか、とか。
エロ的なものは美的なものと引き合う兄弟だけど、親子ではない、というか。そういう隙間はありそうな気がする。
その、根深い部分に直接訴えかけるような何ものかが、白木蓮のあの形状にあるのだ、と言ったら、さすがに白木蓮を買いかぶりすぎだろうか。
というようなことをつらつら考えてしまうくらい、白木蓮が好きなんです、というだけのお話でした。
すみません。
贋作書いてみました(笑